最近、私の父(82歳)が免許証を返納し、車も手放しました。
とっくに仕事はやめてますし、息子二人は家を出て離れて住んでますし、趣味の写真もやめました、いろいろな事象は年齢とともに、やめてしまったり、自分の手から離れていきます、父を見て実感します。
お釈迦さまは「無常」だから「私」「私のもの」は成り立たないと説きます、どういうことでしょうか?
抜粋
お釈迦様はすべて自ら確かめたうえで真理を説かれました。そしてお釈迦様の説かれた真理は、私たちも「自ら確かめられる」真理なのです。例えば「無常」は、確かめられる真理です。私たちが何を見ても、それは無常により、変化により成り立っています。しかし人間は事実を嫌がるのです。無常の話は嫌がるのに、「あなたには素晴らしいオーラがある」という話は大喜びする。そういう人間にお釈迦様が付けた敬称は「愚か者」です。人間は嘘が好きです、でも嘘によって苦しんでいるのも人間なのです。嘘をやめ、無常の真理を認めることで、私たちは信じられないやすらぎを得るのです。
無常こそ真理です。しかし「無常だから頑張らなくていい」ということも成り立たないのです。私たちは、すべて変わるからこそ、成長できます。しかし、何ものにも執着はできないのです。お釈迦様は「私」「私のもの」というものは成り立たない、とも説かれました。「私の身体」と言いながら、身体は何ひとつ希望を聞いてくれないのです。希望を一つも聞いてくれないものに「私の身体」と執着するのはバカげた話です。
身体は措いて、心は自分のものでしょうか。悩んでいる心に「いまから悩まないでください」と言っても聞いてくれません。「なに一つとして自分のものにならない」と認めることで、本物の心の安らぎを実感できるのです。私たちは何も持たず裸で生まれてきました。
この肉体さえも、ある期間だけ借りて、使って、地球に返すのです。全ては無常だ、私の思い通りになるものは何もないのだと認めて、とことん落ち着きましょう。お釈迦様の教えを学んで、どこまでも明るい心で生きましょう。
家族、仕事、財産、地位や資格、大切に持っているもの、などなど。
あと、自分の身体。心も、自分から離れていきますね。
ほんと、自分の身の回りはレンタルみたいなものですね。
結局、ぜんぶ返却しますから。
でも悲観的な悲しむ話ではありません。
もともと自分のものは何ひとつなく、レンタルみたいなものですから、自分の手から離れ、返しただけの話で、大した問題じゃない、ということでしょう。
私は、ちょっとずつ、返却している最中です。
手放す悲しさより、身軽になる喜びがいいですね。
最後に死ぬときに唯一持っていけるものがあります。
日本テーラワーダ仏教協会のHPより
しかし、死ぬときに持っていくもの、自分のものといえるものが一つだけあります。それは、性格です。死ぬとき、性格だけは置いていくことができません。ですから、生きているうちに清らかで良い性格をつくることが大切です。この世に置いていかなければならないものを必死に集めても意味がありません。持っていけるものを集めましょう。善行為、いわゆる功徳は、持っていくことができます。死ぬまでに何を獲得すべきかというと、功徳です。これは、自分といっしょなのです。
良い性格かあ、いまのところ、喜んで持っていける性格じゃないです、でも、お釈迦様の言う善行為は積んでいきたいです。