箭経は、お釈迦様の死に関するアドバイスであり、死をどう見るべきか、説いてます。
箭経 サッラスッタ
http://gotami.j-theravada.net/sallasutta.pdf
南方の国々の人々は、お葬式とかに、このお経を唱えて、お坊様は、このお経を元に説法します。
死に対して当たり前のことが書いてあるのですが、当たり前のことを理解しようとしませんね、私もそうです。
例えば、一緒に仕事をしていた取引先の担当者が急に亡くなる。とか
「この次、一緒に〇〇〇しましょう!」と約束した、親しい方が急に亡くなる。とか
ちょっと動揺します。
この間、義母(83歳)と世間話
この間、従兄弟に、「都合がついたら、一緒にお寺に行って、過去帳、見に行こう」と約束したのに、「おれ、病気なったみたい・・」と連絡があって、あれやあれやと悪くなって死んでしまった。とのこと。
そして義母が「あと、お坊様にも聞きたいことあるんだけどな。」
それを聞いた私、「いつ死ぬかわからんから、明日にでもタクシーに乗って行ったほうがいいよ」
私も含めて、だいたいの方は、明日も生きているだろう、と思っているんですね、でも厳密に考えるとなんの根拠もありません。
箭経の引用と長老の解説です
574
徴(しるし)もなし。予告もなし。この世の人の命というものは、
惨めなもの。儚(はかな)いもの。その上苦しみに陥っている。
最初の「徴もなし」とは、なんの前触れもなしに、突然、死が訪れるという意味です。まるで地震のように、何も予兆はありませんし、いつ来るかわかりません。本人が気づかないうちに、「これから頑張って生きてやるぞ」と思っている間に、死んでしまうものなのです。
中略
死ぬということは、驚くほどのものではありません。
ひとかけらの苦しみも無く、満面笑顔で喜びだけで生きていられるならば、死んでしまってはもったいないと言えるかもしれません。しかし理性を働かせてみれば、とてもそうは見えないのです。
生きることは、惨めで、儚くて、苦しみばかりです。それなのに死ぬことだけを大変な不幸と考えるのはどういうわけでしょうか?
なんだか、突き放されているような文章ですが、理性で考えると、「死はそういうものだよ」ということです。
仏教の目的は悟ること、目的を後回しにせずに、とっとと励みなさい、死ぬかもしれないのだから。
日常のやるべきことも、とっととやりなさい、「死ぬかもよ」ですから。
本書では、長老の偈の解説はまだまだ続きます、下記の本になります。

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