南方の国々では、この箭経がお葬式に読誦されます
ほとんどの方が暗記してます。
何を言ってるのか、意味のわからない、役に立たないお経を聞くより、死について、ガツンと考えることができる箭経のほうがお葬式の役に立ちます。
私が死にそうになったら、急いで箭経を小冊子にして、親しい人に配って、差し上げて、「死んだら読んでね」とお願いしましょうか。
箭経は続きます
人は勝手にやってきて、勝手に去っていきます
残された人(遺族)に言及してます。
親しい人が亡くなったとき、悲しいですよね
でも、仏教は違います、バッサリといきます
協会のHPより
釈尊の教え・あなたとの対話
【34】生命(死を想うことの効用)より引用
Q: しかし、死は悲しいものです。親しい人の死に接したとき、常識的な人間であれば、涙も出るし、それが親しい人であれば、いつまでもいつまでも悲しみます。
A: ここにもときどき誤解があります。悲しくなるのは、自分が優しい人間だからだと思っているのではないでしょうか。亡くなった相手のことを考えて自分が悲しんでいるというのはちょっとした誤解であって、よくよく考えてみると、自分に「損」があるから悲しいのです。他人の死によってまったく損をせず得をするということなら、同じ状況でも悲しくないのです。結局自分の欲で泣いているのです。よその国のまったく知らない他人が死んだと聞いても悲しくはないでしょう。まったく平気でおれたりするのです。
本当に優しい人は、どんな人が苦しんでいても、その人と同じように痛みを感じる。この人々が幸福でいて欲しい、と思う。たとえばセルビアの子供が大人の戦いに巻き込まれて、足を失った姿をテレビで見て心に痛みを感じるなら、それは自分には損も得もない、優しさなのです。
我々が通常、親が亡くなった、子が亡くなった、だんなが亡くなった、奥さんが亡くなった、といって泣くときは、自分がなんらかの損をするからだと考えて間違いありません。そういうことがあっても泣かない人を、血も涙もない人だというかもしれませんが、そんな常識は、仏教では常識とはいえません。そういう世間の「常識」に従うのではなくて、心の中でじっと真理を見つめていくと、心静かになるのです。心静かになって、物事が見られるようになってくるのです。
親しい人が亡くなる、結局、自分の欲で泣いている。
泣いている人は自分の欲で泣いている、本当は泣くことは成り立たない、心静かに幸せでありますように、と、物事を見られるようになることが、仏教では大切。
と、偉そうに書きましたが、たぶん、世間の常識に浸かっている私は動揺しますね、まだまだハンパな仏教徒です。
箭経に戻ります
583
泣き叫ぶことで得する何かがあるならば、
それは頭の混乱、自己いじめ。
智慧ある人ならこのように知る。
584
こころのやすらぎは泣き崩れること、嘆き悲しむことでは得られない。
苦しみはただ増すばかり。身体はますます損なわれる。
585
身はやつれ、顔色は悪くなる。自分で自分を傷つける。
死者の供養にもならない悲しむことは、無駄なだけ。
586
悲しみを断ち切らない者が、なおさら苦悩に陥る。
亡き人を嘆く人は、悲しみに呑み込まれる。
中略
人は悲しもうと思ったら何十年でも悲しみ続けることができます。しかしその悲しみは、亡くなった人に何か供養してあげるというものではありません。
悲しみの結果としてあるのは、ただ自己破壊だけなのです。
供養は、供養する人の心の状態がとても重要です、「生きとし生けるものが幸せでありますように、善きところにいけますように」という慈悲の心で供養できれば最高ですね、本当の供養になります。
「なんで死んだんだ、悲しい悲しい悲しい、いなくてさみしい」という心では供養になりませんね、届きません。
ましてや嘆く理由が、損したと思っている自分の都合でしょう、ロクでもないです。
「嘆くのは無駄」とバッサリです。
亡くなった方は、もう自分の都合とは関係ないです。
ですから、「これから、どうする」という、前向きの都合を優先してください。
と、また偉そうに書いてますが、私も親しい人が亡くなったら後者だと思います。
悲し尽くした後に、善い心の状態で供養に励みたいです。
まだ、箭経は続きます、お釈迦様は最後まで徹底しているのです。

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