慈しみの心をきちんと育てないで、ヴィッパサナ―冥想をしても、日々の実践をしても、たぶん、うまくいかないです。
慈しみは仏教徒の基礎の基礎です。
あと五戒ですね。
慈しみ、五戒をきちんとやったうえで、冥想や実践になります、だから、逆に言うと、慈しみと五戒を伴わない冥想や実践は「ごくろうさま」で終わります。
「ブッダの教え一日一話」より
修行しても「ご苦労さま」で終わる
いくら修行しても「ごくろうさま」で終わる人がいます。
その理由は、慈悲の心を育てていないからです。慈悲の心のない人は「自分だけよければ」という生き方をしています。
その気持ちをもっていくら修行してもエゴが強化されるだけです。
だから修行して立派な人間になりたいと思う人は、慈悲の実践でエゴを破ることです。
慈悲の実践として、慈悲の冥想があります。
やり始めたころ、たいていの方が下記にひっかかるようです。
引用します
仏教講義 24.ストレス完治への道 (5)慈しみの心で人生を縫う
嫌いな人にも慈しみを
それから、自分の邪魔をしたり、傷つけたり、足を引っ張ったりする人や、悪事を働く愚か者たちに対しても、慈しみで対応できる優れた人間になることを目指してください。たいていの人はここで引っ掛かるのです。「人に優しくしたいのですが嫌いな人には優しくしたくありません」とか「足を引っ張る人に優しくしたら、さらに私の足を引っ張るのではないか」と、そういうことを言うのです。しかし、自分を貶したり傷つけたりする人に対して慈しみの気持ちを向けることによって、私たちは立派な人間になれるのです。敵を許す人は、臆病者でも負け犬でも腰抜けでもありません。真に強い立派な人間なのです。敵を攻撃してつぶそうとするやり方は、動物のやり方なのです。
「わたしの嫌いな生命もしあわせでありますように」
これですね、嫌いな生命にも慈しみを実践しなさい、とお釈迦様は説いています、お釈迦様が言ってることなので、「やる」ということです。
つべこべ言わず、仏教徒は実践あるのみ。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
生きとし生けるものが幸せでありますように。