「法句経 一日一悟」より
悪を犯すとき、無知な人は
それを悪業であると気づかない。
しかし自らの行為によって、
智慧のない人は火傷したように苦しみ続ける
(ダンマパダ136)
中略
悪行為は瞬間的に心地よい刺激が伴うため、人はその虜になってしまうものです、その刺激に私たちは負けてはいません。反対に善行為をしたときには、そんな刺激はありません。むしろただ苦労しているだけではないか、おもしろくない、といったマイナスの感情がこみ上げてくるのです。
中略
単純に考えれば「瞬間的な心地よい刺激と長く続く不幸」と「瞬間的な苦しみと長く続く幸福」はいずれもワンセットで、どちらを選んで生きるべきかということになります。きっとみなさんは後者の道徳的な生き方を選ぶでしょう、人間には、そうやって、ありのままに物事を観て、決断する能力が必要なのです、この大事なポイントを忘れて道徳を語っているから、誰も「善いことをしよう」という気分にはならない。みんなが道徳を説いても、誰も実行しないのです。
小学校で道徳が「教科」になるというニュースを聞きますが、一番は「いじめ」の対応とのこと。
いじめのニュースや、それを苦にした自殺のニュースを目にします。
いじめや自殺があるたびに、学校は「いじめの実態はなかった」と言い、調べると「すみません、ありました」というパターンが多いです。
結果的に学校は嘘をついていたことになります。
この時点でNG、アウトです。
教育委員会も学校も教師も嘘をつく、嘘をつく組織の中では道徳教育は無理です。
というと、話にならないので、せめて、まずは教師が率先して道徳を守り、実行することかな。
「道徳(善行為)をすることは、かなりしんどいことなんだよ、でも、その幸福感は長く続くのだよ」、と教師が身をもって教えるしかないかな。
教える人間に道徳が無ければ、子どもたちはすぐに見破ります、子どもは大人の行為にすごく敏感です、でも優しいので見て見ぬフリをしてくれます、大人はそういう子どもたちに甘えてはいけませんね。
いじめって、いじめるほうは、人をいじめるとき瞬間的に気分がいいのでしょう、でもその不幸感は死ぬまで続きますよ、いや、その業は死んでも終わりませんよ、怖いですよ、ほんと怖いですよ。
いじめを「やめなさい」と言う、そのときはしんどいかもしれないけど、その幸福感は長く続きます、善行為はしんどいですが、ずーっと続く不幸感より、はるかにいいです。
だから、仏教は「悪行為はやめなさい」と言います。
とりとめのない文章になりました、最近出来た道徳の概念を教えるより、仏教の真理のほうが、はるかにためになるのですが・・。
仏教教育は、日本では無理かな・・・。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
生きとし生けるものが幸せでありますように。