「ダンマパダ 一日一話」より
一切のかぶりものを取る
心の汚れを捨てていない人が、
黄褐色の法衣をまとって
自制しようとしないならば、
法衣にはふさわしくない
(ダンマパダ9)
インドでは、黄褐色の服は、仏教の僧侶だけではなく出家者が着ます。とても心が落ち着く色なのです。植物は枯れていくと黄褐色になっていきます。それは、すべては枯れ老いて滅びゆくことをあらわしています。出家者は、俗世を離れたので、その色の衣を着るわけです。
袈裟の言語は「カーサーバ」で、「黄褐色の衣」「アク、汚れ」という意味があります。俗世間を離れて袈裟を着ていても、心が俗世の汚れに満ちているならば、それは自分をも他人を欺いていることになります。その者は、袈裟を着るのにふさわしいとはいえません。
わたしたちは法衣を着なくても、「立派なかぶりもの」をつけようとします。
いろいろなかぶりものを身につけます。会社や組織の名前、肩書、学歴というかぶりものです。体の美しさや、才能や財産も含まれるでしょう。それは、ありのままの自分を隠そうとしたり、立派だと認めてほしいから着るのです。
外のかぶりものと、中身の自分との間に大きな隔たりがあれば、自分をごまかしていることになります。かぶりものに合わせて演技をしなくてはならないのです。
立派なかぶりものにだまされてはいけません。大会社の社長とか、一流大学の教授と名乗ると立派な人格者と思われます。しかし、それらは所詮かぶりもので、中身は普通の人間かもしれません。宗教の世界でも、立派な法衣を着ていて、あたかも聖者のように振る舞っていても、ほんとうの姿は違うということがよくあります。人減に必要なことは、外のかぶりものではなく内の心の清らかさです。心の清らかさとは、嫉妬、憎しみ、怒り、貪り、などで心が汚れていないことです。仏教では「捨てろ、捨てろ」と言います。それは「一切のかぶりものを取りなさい」ということなのです。
日本のお坊様は、我々と同じ在家なのです(妻帯、家族を持っています、お酒も飲みます)
だから、肩書を持って生活している我々とまったく同じです。
お坊様という肩書で仕事してます。
在家って、わかりやすいですね。
捨てるべきものも、はっきりしてるし。
いずれにしても、肩書はいつかは捨てるというか、離れていくものになります。
その一方で、テーラワーダ仏教の国々のお坊様は、世を捨てて出家されています。
世を捨ててるので、もう仏教の修行しかありません、在家がお坊様の命を支えることになります。
非常にまじめに、修行に励んでいるお坊様もいらっしゃいます。
しかし、出家して世を捨ててることになっているのに、黄褐色の袈裟を着て、在家と同じことをして、破戒しまくっているお坊様もいます。
こちらのほうがタチが悪いです、見分けがつかないので、一番タチが悪いです。
ましてや、サンガを破壊してるので重罪です。
他人を欺く者は、自分自身も欺きます。
逆も言えます、自分を欺くから、他人を欺けるんでしょうね。
早く、自分の重罪に気づいて、「捨てて、捨てて」ほしいです。