自分は関わっていないのですが、他で、いろんな組織がうまくいってないことを見たり聞いたりしています。
当然、人が関わっているわけですが、原因は中にいる人間です。
「イヤなことあった」「不快だった」「あいつは嫌い」「気に入らない」「あいつは間違っていると思う」「よくないことだと思う」
いろいろです、お互い、面向かって話し合いをせずに、陰口に終始すると、収拾がつかなくなると思います。
当たり前の話ですが、組織の中心者が人望がある人だと、きちんとまとまりますね。
多少のトラブルでも放っておかず、克服していきます。
ダメな組織だと、トラブルを放置して、どんどん積み重なって、崩壊していきます。
当然、ダメな組織の方って、中心人物に人望が無いです。
人望が無い方は、面白いのですが、どうでもいいことばかりしています。
自分の書いた文章からです
自分はなぜ生きるのか、そんなことに迷ったら、とにかく「人格向上のために生きる」と決めてしまうのです。
「なぜ、この仕事をするのか」「なんのために働いているんだろう」など、そんな思いに支配されてしまうときは、「すべては人格向上のため」にやっているんだ、と思えばいいのです。
人間はゼロで生まれてきて、いろいろなことを学びながら成長していきます。「できないことが、できるようになる」というところに達成感や喜びがあって、それを味わいながら、一歩一歩成長していくわけです、それが生きるということです。
そういった生きるいとなみの目的を「人格向上のため」と定めるのです。それを生きることのど真ん中におくのです。
それ以外のことは、いわば「俗世間的プログラム」です。俗世間のプログラムとは、仕事で評価される、出世する、お金持ちになる、自分のやりたい仕事につく、などです。
そういったものを人生の目的にしたら、あまりにさみしいことです。そういったことは「ついで」にやればいいのです。
お金を稼いだり、自分のやりがいを満たしたり、人から評価されたりするのは、すべて「ついで」の領域です。人格向上をするかたわら、生きていくのに最低限のお金が稼げれば、それで充分です、その「出来、不出来」に一喜一憂する必要はありません。
稼ぐ心配をしたり、評価の心配をしたり、出世の心配をしたり、「ついで」」のことばかり心配して、人格向上という大事なことを置き去りにしてると、物事はうまくいかないと思います。
仏教は
「これだけ世間的に大成功しました」「ものすごく稼ぎました」と言われても
「ん? だから、なに?」 で終わります。
うまくいかないケースを見てると、「もったいないなあ、仏教学べばスムースにいくのに」といつも思います。
生きとし生けるものが幸せでありますように。