勉強では「名」(ナーマ)は「心」と「心所」の二つに分けることができる、と教わりました。
「心89」
「心所52」
今回「心」については、かなりの駆け足で学びましたが。まだ「心所」については学んでません。
ただ、先生は「心」を純粋な水に譬え、「心所」を水に混ざる成分と譬えました。
水に土を混ぜると泥水になり、絵具を混ぜると色水になります。
心に貪瞋痴の成分が混ざれば不善心になり、貪瞋痴と反対の成分が混ざれば善心になります。
「心」と「心所」についてダンマパダを参照します
1(1)諸々の法(事象)は、意を先行(の因)とし、意を最勝(の因)とし、意をもとに作られる。もし汚れた意で、あるいは、語り、あるいは、為すなら、そののち、彼に、苦しみが従い行くーーー(荷物を)運ぶ(牛)の足跡に、車輪が(付き従う)ように。
2(2)諸々の法(事象)は、意を先行(の因)とし、意を最勝(の因)とし、意をもとに作られる。もし清らかな意で、あるいは、語り、あるいは、為すなら、そののち、彼に、楽しみが従い行くーーー影が離れないように。
ダンマパダ(1) (2)
正田大観先生訳
中村元先生、スマナサーラ長老は「意」の部分を「心」と訳してました。
私の勝手な解釈ですみませんが「楽しみ」は「幸福」のことだと思います。
どんなことでも、先に心が先導し、事象が起こり、語り、あるいは、為す。
その心が不善だと、その結果は悪いでしょうね、悪いことがつきまとう、ということです。
不善の心だと、牛の足跡に車輪が付き従うのですね。
なんだか、重苦しい感じがします。
でも牛車を切り離せば軽くなります、軽くなる可能性があるということです。
清らかな心(無明のない)で事象が起こり、そして、語り、あるいは、為す。
その結果は幸せになる、ということです。
影のように付き従うとのこと、軽やかですね、そして,自分から離れることはありません。影なら確実ですね。
心のことがいきなりダンマパダの巻頭に書かれています、それだけ仏教では「心」が一番重要ということです。
次回「心所52」の勉強が楽しみです。