第九偈では、神様が出てきましたが、第十偈では「覚り」になります。
覚りはいろいろな言葉で表現されます
覚り、悟り、解脱、涅槃(死ぬ意味ではないです)、ニルヴァーナ、寂滅、ニッバーナ
などなど。
みんな同じ意味だと思います。
覚りは、仏教の目的です、この目的に達したら終了です。
ですから、お釈迦様の言葉は、だいたい最終的なオチは「覚り」になります。
下記の本から引用します
お釈迦様は、「たとえ四行の詩偈であっても、解脱に導いていなければ仏法としての意味はない」と仰って、常にそういう基準で教えを説きました。
お経でも詩偈でも、解脱で話は終了します。
以前、掲載した「箭経」も覚りでお経は終了します。
でも、「覚り」とか「涅槃」と言われても、ピンとこない方がほとんどではないでしょうか?
なんとかわかりやすく伝えたいです。
下記の本から引用します
しかし「涅槃を目指せと言われてもなんのことやら・・・」と困惑される方も多いかもしれません。それならば、「最高の幸福はこころを清らかにすることである」と受け取って実践してみて下さい。怒り、憎しみ、嫉妬、後悔、貪欲、物惜しみ、怠け、といった汚れからこころを清らかにしたとき、また、こころを混じりけのない慈しみで満たしたとき、それまでに経験したことがない幸福感を味わっていることに気づくでしょう、それが解脱への第一歩、涅槃への確実な第一歩になります、「最高の幸福は涅槃である」というブッダの言葉は、教えを実践することによって真実として体験できるのです。
慈しみの実践によって、神様の境地どころか、覚りに近づくことができる、というわけです、その理由について、下記のHPに詳細な説明があります。
慈しみの実践によって、心も体も「慈しみ漬け」の状態だと、全ての生命を平等にみることで、自分と他人の差がなくなり、区別して見ないで生命として見ることができる、この状態だともはや自我の錯覚が崩れているんでしょうね。
自我がなくなったら、覚りまでもう一息です。
慈しみの実践だけでも、かなりいいところまで行けるのですね。
副産物も多いですし。
まだまだ副産物に甘んじている状態です。
まずは「慈しみ漬け」を目指すということでしょうか。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
生きとし生けるものが幸せでありますように。