下記の記事を読んでいただいた方から質問がありました。
ご質問は、深く考えるいい機会になりますので感謝です。
テキストでは、慈悲の実践を深く行うと覚ることができる、と書きましたが、下記の質問をいただきました。
母体に宿ることはないということは、それが輪廻を脱出することや解脱するということになりますか?
不還果の場合でも、次の生は梵天で母体からの発生ではありません。
あえて解脱と言わず母体に宿らないという言葉を選択している意味を考えてしまいます。
そういった事から慈経の最後は解脱になるとは言ってなく、不還果になると言ってると私は解釈しています。
慈の修習だけではまだ足りず、最後の五つの束縛はまだ残るのではないでしょうか?
私自身、慈悲の実践を極めたことがないですし、浅学と個人の見解でお答えするのは失礼かと思いました。
近く、テーラワーダのお坊様に会えますので聞いてみたいと思います。
ただ「そんなこと考えるくらいならこころの汚れを落とし、とっとと実践に励みなさい」と叱られそうです。
自分で書いていて恐縮ですが、慈悲の実践で覚る、ということには、自分の体験が無いので、いくら考えても仕方ないな・・、と思っています。
お坊様から、お小言を言われながら聞いてみたいと思います。
ご質問ありがとうございました。
お幸せでありますように。