ネットで探すと、「私は覚っている」という人がけっこう出てきます。
全世界だとうじゃうじゃ出てくるでしょう。
前回の法話会で、お坊様が
「覚っていると言っている人は危ない」
「覚っている人は覚っていると言わない」
「言葉では説明できない、相対性を抜け出た世界」
とおしゃってました。
私が勝手に思うに
自我の錯覚を破っている方なので、「私」という単語が無いのでしょうね、だから「私は〇〇」という言い方はあり得ない。
「幸せの法則」より引用
仏教のマインドフルネスは、データをとって検証する現代的な科学とはやり方が違います、仏教のマインドフルネスの場合、脳は脳で放っておき、腎臓は腎臓のことで放っておきます。そしてそれを別々に観察します。マインドフルネスというのは、システムを観察することなのです、観察すると心や自分は錯覚であることが見えてきます。
覚りは4段階に設定されています。自分が錯覚だとわかったら、覚りの第一段階は合格です。その後は必ず最終的な覚りにまで達します。第二段階では、生きるうえでの欲と怒りが薄くなります。欲と怒りが薄くなっても生きられるようになります。第三段階では欲と怒りが一切なくなります、一切なくなっても生きられます。このような人はすでに究極の幸せにいます、さらに第四段階では「生きていたい」という気持ちを諦めて、執着を一切捨てます、生きていきたい気持ちすらなくなれば、それ以上は話になりません。完了です。
前野
それが悟りなのですね。
はい。もし「あなたは悟っているのですか?」と質問されたなら、「私は」という主語を使わなければいけないでしょう。だから答えらないのです。もしどなたかが「私は悟っています」と言ったら、悟っていない証拠になります。
前野
死んでいなければおかしいということですか?
まあ、言葉遊びで、「俺は死んでいるのだから、そんなこと関係ない」と言ったらそれは正しい答えです。先生がおしゃった言葉と同じです。「私はもうとっくに死んでいるのだから、この質問は私には合いません、悟るか悟らないかは生きている連中の世界でしょ。私は死んでいるのだよ」と。それが正解に近い答えなのです。
しかし、こんな会話は、中身のわかっている二人でないと成り立ちません、一般人には成り立たないのです。
引用元 最新化でした。
以前、長老が悟った人、悟りに近い人の印象を
「すごくかわいらしいボ〇老人みたい」とおしゃってました。
やさしく、かわいらしい、認知症のおじいちゃん、おばあちゃん、みたい。なのでしょう。
私もそう思います。
今世で、悟ることはできなくても、周りに迷惑をかけない、かわいらしいおじいちゃんを目指したいですね。
まだ、法話会の余韻は続きます。
お幸せでありますように。