中山書房仏書林さん発行の本「南方上座部 仏教儀式集」に片山一良(かたやまいちろう)先生の序文がじつにいいです。
冒頭引用します
仏教は本来儀式なるものを必要としなかったと言える。少なくとも仏教が無我ないし空を標榜するかぎり。形ある「儀礼」は意味を持ち得ない。最初期の仏典に知られる出家生活では、むしろ反儀礼の、もっぱら無所有とか独座が強調され、一般的な「儀礼社会」の観念がほとんど現れてこない。たとえば比丘になるにも、釈尊による「来たれ、比丘よ」(エーヒ ビック)の一言で事が足りたという。ところが比丘の数が増えるにつれてサンガ、つまり「出家社会」は組織化され、儀礼化が進んでいった。仏教の個人レベルから集団もしくは社会レベルへの実質的移行、変化でもある。儀礼が必要とされ、意味を持つのはここからである。集団生活における「実践」と「教義」とのギャップを埋める役割を果たすもの、統合機能を有するもの、それが儀礼である。
もともとは儀礼はなかったのですが、比丘の数が増えるにつれ、必要になってきたのですね。
もともとは仏教の実践と仏教の教義を埋めるもの、仲立ちをするものだったのですね。
私が勝手に思って恐縮ですが、仏教の儀礼には、「教義となんの関係があるの?」というのもあります、教義にのっとった儀礼はいいのですが、まったく教義と関係ない儀礼のための儀礼もあります。
仏教と関係のない儀礼は、やはり「文化、習慣」ということで、区別したほうがいいですね、ホント、解脱とは関係ないですから。
お釈迦様が生きていたころから、戒禁取といって、解脱に至らない道であると言ってます。
戒禁取
無意味な苦行やあらゆる宗教儀式・儀礼。預流果を得ると、これらは解脱に至らない道だとわかる。
宝経(ラタナスッタン)の第十偈にも出てます。一部引用。
知見の成就と共に、
以下の三つのもの(煩悩)は捨て去られたことになる。
有身見、疑、戒禁取なり。
悟りに近づくと、戒禁取は捨て去られることになります。
長老時代の西澤先生の戒禁取見についてのコメントがありました。
最後、スマナサーラ長老、儀式儀礼に囚われずに、どうやって仏教の修行を続けるか?
本質的なことをおっしゃっています。
仏教は心を清らかにするための修行であり、それと関係ない儀式・儀礼は文化習慣ということで区別ですね。
生きとし生けるものが幸せでありますように。
右側の本を参考にしました。