相馬御風の書いた子ども向けの本「良寛さま」と「続良寛さま」を読んで。
相馬御風
お酒を好み、(たくさん飲めず、乱れることもなかった)美味しいものを食べたら喜んで、とても無邪気な良寛さまが書かれています。
でも、人を慈しみ、徹底的に不殺生、怒らず、物事、欲に執着せず、正直で、見事な人格者です。
仏教を知らなかったら、良寛さまは素通りしてたと思います。
引用します
明日のことはわからぬ
良寛さまはあちらこちらでよく病人の世話をしてやりました。看護のしかたを教えたり、薬の作り方を教えたり、時には自分で病人にお灸をすえてやりました。またときには按摩をしてやりました。
それで病人も喜びましたし、家の人たちも喜びました。そしてどこの家でも、必ずこう言って頼みました。
「ありがとうごいました。おかげで助けていただきます。どうぞまた明日もおいでくださるようお願い申し上げます。」
しかし、誰が頼んでも良寛さまは必ず答えました。
「明日のことはわからんわい」
すると誰でも、
「そうでしょうが、何かと都合をつけて明日もどうか来て下さるように・・・」
そう重ねて頼むのでした。
それでも良寛さまの答えは、いつも同じことでした。
「明日のことはわからんのう」
しかし、これは決して良寛さまの親切が足りないからではありませんでした。それよりも良寛さまはむやみに約束することを避けていたのです。事実誰でも明日のことはたしかにわかるはずがないのです。もしあてにしていられて、それが何かの障りで出来なかったらなお悪い、良寛さまはいつもそのことを思ったからでした。
人に迷惑をかけない、ということもあったかもしれませんが、実際、未来のことはわかりません。
過去に執着してもしょうがないし。
今を大切にする人だったのでしょう。
良寛さまの「今」を大事にするお話
これも引用します。
何処から? 何処へ?
ある人が道で良寛さまに言いました。
「おや、良寛さま、今日はどちらへ行きなさいます。」
こう、その人がたずねました。
良寛さまはそっけなく答えました。
「わからん。わしはただ足の向いたほうへ行くのじゃ。」
良寛さまはいったい人から「どこへ行く」と聞かれるのが大嫌いでした。
「なぜ人はみんな同じようにどこへ行くどこへ行くと聞くのだろう。どこへ行こうがわしの勝手じゃ。またどこへ行くか聞いたからとて、その人の何のためになるものじゃない。そればかりじゃない。どこの家へ訪ねて行っても必ず「良寛さま、今日はどこから来なさった」と聞く、それもいらんことだ。
この良寛がどこから来ようが、どこへ行こうが、ほかの誰にも用のないことじゃ。それだのに誰もかもみんな会いさえすればどこへ行くかとか、どこから来たかとかたずねる。わしはそれが大嫌いじゃ。そんな失礼なあいさつがあるもんか」
良寛さまはこうしていつも世間の人のあいさつのしかたの間違っていることを皆に言って聞かせました
そのかわり自分では決してどんな人に向かっても「何処へ行くか?」とか「何処から来たか」とかいうことを尋ねるようなことはしませんでした。
過去も未来もないですね。
勝手な想像で恐縮ですが、「自分が・・自分が・・」という錯覚があまり無いのかも・・。
「今」しかないのですね。
相馬御風の仏教を実践する良寛さまはとてもわかりやすかったです。
良寛さまが気になるので続けます。
生きとし生けるものが幸せでありますように。