門の摂を習った際、気になる部分がありました。
門は、六門あり、眼耳鼻舌身意です。
この門から離れてるものが、離門であり、業、業相、趣相以外の所縁を取らない、とテキストにありました。
アビダンマッタサンガハでは、こういう文章です
結生、有分、死という名前の離門心についても、所縁は六種類ある。離門心は生まれるごとに、たいてい、他の(直前の)生における六門(による速行心)が捉えた所縁を所縁とする。その所縁とは、現在、過去、あるいは、施設となった業、業相、趣相と呼ばれるものである。
離門心は、人が生まれるときの結晶心、実感のない心の有分心、死(死の作用の心)その心になります。
仏教は因果と、業、輪廻を説いてます。
①原因があると、その結果があります。
②善業でも悪業でも、やったことは、自分や、自分の心なりに回ってきます。
①と②を踏まえると、死んだら終わり、ということにはなりません。
死んだら①と②がチャラになるということはありません、もしチャラになったら、①と②を否定することになります。
だから、仏教は輪廻を説きます、死んでも終わりではないのですね。
チャラにはなりません、結果が出ることになります。
で、離門は、業、業相、趣相の所縁を取る、とあります。
死ぬときは、門が壊れている状態、でも、なにかしら、業、業相、趣相を取ることができるのですね。
つまり、死ぬときに、自分の業(カルマ)、業相(カルマの結果)、趣相(次に生まれるところ)、何か兆候があるのでしょう。
だから、死ぬときに、いままでやってきたことの、結果を出そうとしている。結果がでてしまう。ということなのでしょう。
ちょっと、怖いなあ、と思いながら読みましたが、アビダンマは淡々としています。
亡くなる直前の心(死ぬ直前、もっと以前の業)が重要で、例えば、財産に執着したまま亡くなったら、次は、その心で生まれます。たぶん、あまりいい生まれではないですね。

ブッダの実践心理学 第4巻 心の生滅の分析 アビダンマ講義シリーズ
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上記の本から引用です
旅立つ気持ちで死ぬことです。我々はどうせ旅人なのですから。善いところに生まれ変わるためには、この「旅する気持ち」を徹底しておかなくてはいけません。「この世の中には一時的にいるだけですよ。ほんのちょっとの短い滞在ですよ」と思ってしまえば、心はすぐにボロボロの身体への執着から離れられます。そういう人々は、善いところに生まれ変わることができるのです。とにかく、心をいつも明るく楽しくしておかないといけません。病気になって自分の行く末が見えてきたら、とことん善いことをしたり、善いことを考えたりすればいいのです。
死ぬときに、善い業、業相、趣相を見たければ、元気なうちに、善いことを積め、ということです。
生きとし生けるものが幸せでありますように。