想田監督との共著『観察』で、長老は「観察しないと疲れる、苦しい」とおっしゃってます。
長老にとって、観察は冥想であり、冥想は観察であり、もう日常です。
まだまだ、ここまでの境地はわかりませんが、でも、なんとなくわかります。
ヴィッパサナー冥想している間は、自分の妄想や煩悩に敏感になり、自覚できます。
自分の体にも気づきます。
日常生活の観察は、これもヴィッパサナーになります、長老は、ずっとヴィッパサナー状態なのでしょう。
観察しているときは、妄想にとらわれていません、煩悩から離れてます、貪瞋痴から離れてます、主観にとらわれた状態ではありません。
話は変わりますが、別の本からの引用です
もしかしたら、長老はこのような感じで観察しているのかもしれません。
202ページ
変化するから面白い
「ずっと見ていると、どれも面白い」と言いたいのです。
寒くなると、サクラは片っ端から自分の葉を落としてしまうでしょう。私は枝しかないサクラを「ああ、眠っているな」と楽しく見ています。暖かくなると興奮したように花が咲く。はしゃいでいるみたいで、それも楽しい。あっという間に花が散るのも楽しい。その後には葉が出ているのを見るのも楽しい。うっそうと葉が茂っている様子も「自然を守ってくれているのだ」と嬉しく見ています。
無常の見方
すべて瞬間で消えて、別なものに変わるのだと観察して、欲に溺れないようにするのです。
楽しいことがあっても、直ちに変わるものだと思って冷静になる。
苦しいことがあっても、直ちに変わるものだと知って冷静になるのです。
このような感じだと、疲れるわけありませんね、むしろ楽しい。
観察が楽しい、という境地まで、まだたどり着いていませんが、練習を重ねて、自分の身の回りのことや出来事を楽しめるようになりたいです。
生きとし生けるものが幸せでありますように