「皆に好かれる人間になりたい」といっても、無理をして好かれるとか、自分を犠牲にしてまで好かれる、という話ではありません。
でも、他人から嫌われたら幸せではありませんし、好かれないと幸せにはなりません。
かといって、これも無理をする話でもありません。
よく「好かれる」というと。下心のギブアンドテイクを期待する話になりそうですが、それとも関係ありません。
自分が犠牲にならず好かれる方法として慈悲の実践を説いてます。
また理性的に好かれる、ということを定義しています。
引用です
慈悲の実践以外にも、理性に基づいた正しい好かれ方があります。ついでに、それも学んでみましょう。まず「好かれる」という概念の定義とその機能を考えてみましょう。簡単でハンディな定義はありませんが、とりあえず「他人が自分と接することで、喜びを感じる」という定義にします。言い換えれば「他人が自分に何かを期待している」という定義です。他人が期待するものを与えることができれば、たにんに好かれるに決まっています。これが「好かれる」ということの機能になるのです。
好かれるというと、やはりギブアンドテイクにつなげて考える人もいるので、ここでは「喜び」という言葉を使っていますね。
昨日、「中身のある人は威張らない」を書きましたが、中身のある人は好かれてますね、喜びを感じる人でもあります、おんなじですね。
最終的には、人間性と人格者、という話になります。
下記にこの法話の全文があります
巻頭法話(126) 皆に好かれる人間になりたい 2005年 8月
法話のポイントです
・他人に好かれなくては幸福になりません。
・好かれることだけを気にすると、疲れます。
・他人が喜びを感じる人格者は、好かれます。
・悪を犯さないこと、功徳を積むことが、人格者になる道です。
人に好かれるなら、正しく好かれないと、です。
生きとし生けるものが幸せでありますように。