下記の本からの引用です
人生とはしょせん虚しいもの
人生というのは、結局いくら頑張っても水の泡です。いくら一生懸命頑張っても、最後はすべて虚しいのいです。何も後には残りません。
必死になって自分の命も惜しくないと思って子どもを育てても、子どもが大きくなったらどうなるでしょうか?親など必要なくなってしまいます。どこかへ行ってしまい、家で待っていても帰ってきません。母親は寂しく一人で家に取り残されてしまうほかないのです、結局、最後はそんなものです。歳をとって病気になったら子どもは助けにならないし、旦那さんも助けにならないし、奥さんも助けにならないし、薬も効かないし、ただ虚しいだけです。
結局、人生は虚しくて苦しいのだから、だからどうだというのでしょうか。自暴自棄になってしたい放題のことをするのですか?そのようなことをしても元の木阿弥で、さらにストレスをためるだけではないですか?
だから、私は力を抜いて、気楽に生きてください、というのです。やっているのはしょせんアホなことだと気がつくと、楽になるのです。
やっぱり仏教は悲観的だと言われそうです。
でも、これって全部事実です。
事実なのに、悲観とか、言われてもねえ
仏教は生きることは苦だと言ってますが、いたずらに、事態を暗く観てません、前途も悲しんでません、世を嫌ってるわけでもないです。
個人的な見解ですが、「悲観」という言葉がしっくりきません
生きてるとき得たものは、死ぬときに全て手放すことになります。
頑張って稼いだ、裕福な生活ができた、でも破産した、でも雇われとしてやり直した、普通の生活ができた、でも寿命がきてゲームオーバー
子どもができた、育てた、大きくなった、独立した、孫もできた、親が死んだ、配偶者も死んだ、自分も寿命がきてゲームオーバー
結婚した、不仲になった、離婚寸前までいった、でも気持ちを切り替えて仲直りした、仲良く暮らした、でも、どちらかの寿命がきてゲームオーバー
世俗の生活には、多少の困難があっても、何かしらの答えがあり、これで、死ぬまでにとりあえずはなんとかできます。でも、とりあえずなので根本の原因は取り除いてません。
あと、人生は短いので、困難に陥って、ヤケクソになったり、悩んだりしてる暇は本当は無いのですね。
なぜ苦は偉大なる真理なのか、より引用
人生は短い
では、人生は空しくて苦しいものだからといって、自暴自棄になり、自殺をしたり、やけ酒を飲んで、自分のやりたい放題のことをして人生を過ごしてもいいのでしょうか?
仏教では、自殺行為や堕落行為は一切認めていません。仏教が教えているのは、「生命は死にたくなくても必ず死にます。その事実をよく確認してください」ということです。「死ぬのはいやだ」ではなく、「私は必ず死にます」と確認することです。必ず死にますから、穏やかな心で生きていましょうと。感情的にならずに、嫉妬や憎しみ、苦しみ、競争心を持たずに生きましょうと。一瞬でも苦しむ必要はありません。私たちの人生はほんとうに短いのです。だったらその短いあいだで人と仲良くし、楽しく、気楽に過ごせばいいでしょう。でも私たちは「自分は死なない」と考えているから、人と喧嘩しても、人に迷惑をかけても、へっちゃらなのです。ときどき二十年でも三十年でも恨みや憎しみを持ち続けている人もいるでしょう。そういう人の人生は苦しみのかたまりなのです。
人生は短く、生きることは苦なのですから、気楽に楽しく仲良くすることが一番いいです、余計なことやって、わざわざ苦の上塗りをすることないです。
ここまでは世俗的な苦の話で、苦の中でどう生きるかという話でしたが、仏教はさらに上を目指します、詳しくは下記法話をご覧ください、六話にわたって続いてます。
仏教講義 27.(新連載)なぜ苦は偉大なる真理なのか (1)私たちの知らない巨大な真理
よく読むと、仏教は悲観とは無縁だとわかります。
生きとし生けるものが幸せでありますように。