ジャータカのよもやま話

テーラワーダの在家仏教徒 身の回りのことを地味に書いてます。

第七回アビダンマ基礎講座が行われました。

上越市の浄聖院様のご尽力で、西澤先生をお招きし、アビダンマ基礎講座が行われました。

 

今回は、摂雑分別「基の摂」「所縁の摂」を勉強しました。

 

所縁はとても難しく、復習が必要です。

 

ただ、今回「基の摂」でちょっと印象に残った話がありました。

 

無色界には基がなく、ブッダを見るための眼基、法を聞くための耳基もない。

ただ、悟らなくても、冥想で、色界、無色界に入ることはできる、ただ無常とか、有身見も消えず、煩悩や、一番大事なブッダの教えを知らない。

 

結局、欲界心に生まれ変わったりするということです。

 

うまく言えないので、引用します

藤本晃先生著 「悟りの階梯」

 禅定には悟らなくても入れる

 ここで気を付けてほしいことがあります。不還者は亡くなると必ず梵天界に生まれ変わりますが、梵天界に生まれ変わる生命の全てが不還者とは限らないということです。

 瞑想して禅定に入ることは、インドでは釈尊以前から最も著名な修行の一つでした。それは祭祀を行うバラモンの伝統ではなく、独自に出家して瞑想を楽しむ遊行者の伝統に伝わっていました。

 釈尊ご自身、在家の王子の頃から禅定の最初の段階・色界初禅に入って楽しんでいました。釈尊が出家してすぐに弟子入りした二人の師匠は、それぞれ禅定の最高と最高から一つ下の段階の達人でした。釈尊ご自身も、すぐに両師と同様、禅定の最高の段階まで達しました。

 でも釈尊は、最高の段階までの禅定の全てを、「これは悟りに至る道ではない。せいぜい梵天界に往生するだけだ」と、捨てられたのです。

 悟りの段階に達していず、つまり「私」がいるという有身見が消えず、無常や無我が一瞬も「体験」できていないまま、ただ瞑想に励んで禅定に達した人は、その素晴らしさに囚われます。その一方で、この欲界に対する執着も、消えるわけではありません。禅定を楽しんだ後は、日常生活の中で欲を楽しんだりします。

 このような凡夫の禅定者は、死後に梵天界に輪廻しますが、そこでの長寿を終え、禅定の功徳が切れたら、また欲界のどこかに輪廻してしまいます。欲界の楽に対する執着や、以前に行った善悪業のカルマが欲界に引き込むのです。そうして輪廻の苦しみが続きます。

 でも「『私』はない」と無我、無常を「体験」して悟りの段階に入った人が禅定に達し、梵天界の素晴らしさを体験すると、やはりその素晴らしさに執着しますが、どこかに、この素晴らしさも所詮は無常だという諦めもあります。

 このような聖者は、梵天界に執着する代わりに欲界への執着をあっさり捨ててしまいます。ですから梵天界には生まれ変わりますが、そこでの長寿を終えるともう満足していますので、何の執着も残らず、どこにも輪廻せず、ただ消えてしまうのです。

 同様に、欲界の天人たちには、預流果に達した聖者の天人とただ善業の結果で生まれた凡夫の天人たちがいます。凡夫の天人たちの一部には、人々が悟りを開いたり不還者として梵天に往ったりして自分の欲の世界から完全に離れていくのが嫌で、快楽や恐怖によって邪魔をしようとする者もいます。釈尊を何度か邪魔したマーラ(魔)は、そのような天人です。

 私たちも、悟っていなくても、誘惑や脅しには充分気を付けて自己を戒めましょう。

 

お釈迦様は、悟ったあと、無色界、色界を行き来している二人の師匠に会いに行きましたが、すでに亡くなられたあとでした。

 

悟ったあとに、すぐに師匠に会いに行こうとしました、師匠の悟りのためです。

 

悟りのためだったら、すぐに行動するお釈迦様を感じることができます。

 

 

アビダンマ基礎講座の、先生のこういった話が、楽しく、心に残ったりしています。

 

 

先生を見送った上越妙高駅にひな人形が飾られていました。

生きとし生けるものが幸せでありますように。