ジャータカのよもやま話

テーラワーダの在家仏教徒 身の回りのことを地味に書いてます。

世俗諦の話

世俗諦のよくある例えで。

 

分解する例えがありますね。

 

 

とりあえず世間では自動車と呼ばれているものがあります。

 

バラバラにすると、このタイヤが自動車ですか? このライトが自動車ですか?

このハンドルが自動車ですか? このシートが自動車ですか?

 

ある法則で繋げると、運転して走ることができる、これを皆さまは自動車という。

 

でも、バラバラにすると、自動車ではなく、違うものになってしまうのですね。

 

 

また、例えば、ここに「おっさん」がいる。

 

このおっさんの手がおっさんなのでしょうか?

このおっさんの足がおっさんなのでしょうか?

このおっさんの声がおっさんなのでしょうか?

このおっさんの目がおっさんなのでしょうか?

 

体のパーツはどれも、おっさんではありませんね。

 

いったい、おっさんはどこにいるのでしょう?

 

でも、おっさんが仕事に行くと、周りの方は、サラリーマンだと認識してくれます。

家庭に戻ると、よくいる親父だと家族は認識してくれます。

買い物に行くと、いつものおっさんだと認識されます。

お寺に行くと、お供えを食べるおっさんだと認識されます。

 

私の体のパーツではなくて、仕事での行為、家庭での行為を、いろんな場面における行為をもって「この人はおっさん」だと認識してくれるのですね。

 

そこには深い理由はありません、ただ世間の常識でとりあえず決まっているだけの「おっさん」ですね。

 

でも、世間とか行為はどうでもいいです、主体としてのおっさんはどこにいるのでしょうか?

 

例えば世間とか行為を離れて、まったく関係性を持たない場所にいたら、もう、おっさんと認識されないからおっさんではありませんね、いったい何なんでしょ?

 

なんだか、ゾ~っとする話ですが、もともとおっさんなんていない、日常生活の場面場面で便宜上「おっさん」と呼ばれているだけ。

 

主体となる自我なんてない、ということにうっすらと気づいたりします。

 

 

 

だから、自分のありようを考えるよりも、自分のやった行為の数々、これを観察するほうが、善行為への方向修正ができそうでね。

 

世俗諦は自我の錯覚を見るのに役にたちます。

 

生きとし生けるものが幸せでありますように。

 

 

参考にした本です