長老の新刊が出ました。
今まで、対談本とか、ちょこちょこ出てましたが、この本は、慈悲の冥想のフルバージョンの説明と思いきや、やさしいわかりやすい表現ながらも、むずかしい仏教のエッセンスをしっかり伝えてる本です。
むずかしいことをむずかしい言葉で表現するよりも、むずかしいことをやさしい平易な言葉で表現することこそ、すごいんですよね。
久しぶりにすごみを感じた本です。
これまでも慈悲の冥想の本はあります。
フルバージョンの説明でしたね。
本題に戻ります。
慈悲の冥想フルバージョン、チャプター4の話です。
・私は、釈尊の言葉を念じます。
・無始なる輪廻のなかで、私の母ではなかった生命はいません。
・無始なる輪廻のなかで、私の父ではなかった生命はいません。
・無始なる輪廻のなかで、私の兄弟ではなかった生命はいません。
・無始なる輪廻のなかで、私の子供ではなかった生命はいません。
・無始なる輪廻のなかで、私の友人ではなかった生命はいません。
・釈尊の戒めを尊(とうと)んで、一切の生命に慈しみの気持ちを抱きます。
・すべての生命は私自身の父・母であると思います。
・すべての生命は私自身の兄弟であると思います。
・すべての生命は私自身の子供であると思います。
・すべての生命は私自身の友人であると思います。
・すべての生命は私自身の家族であると思います。
・すべての生命は幸福でありますように。
無私なる輪廻の中で、あの方は私の母かもしれないし、父かもしれないし、私の家族だったかもしれないし、じゃれてくる動物も、お互い、慈しみ、協力し、助け合ったのでしょう。そういったことがあったから、今世で出会っているのでしょう。
ただ、本ではその逆のことも述べています、慈しみとか協力とか、助け合いとか、そういったこととは逆のことです、こういったことを述べるのは、今ままでの長老の本にはあまりなかったことです。
唯一、親子の業(悪業)に書かれてる本があります。

ブッダの智慧に学んで子育てのプロになる: 親は子を育て、子は親を育てる
- 作者: アルボムッレ・スマナサーラ
- 出版社/メーカー: サンガ
- 発売日: 2017/05/29
- メディア: Kindle版
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悪業ですので、殺し殺される業です。
親子の殺し殺される業です、仏教のわからない方だと、本当に子育ての本か?と思うかもしれませんが、仏教では悪業も淡々と述べられます。
それは新刊でも淡々と述べられます。
慈しみ、協力、助け合いとは反対の業、殺し殺される業です。
生命同士の美しい関係もあれば、そうでない関係もあります。
無私なり輪廻の中では、そういった恨み、殺し殺されの組み合わせも起こります。
俗世だと、人を殺したら警察に捕まって、裁判にかけられ、刑務所で服役、もしくは死刑になるかもしれません、でも業だと、それで終わりではありません、無私なる輪廻の中では終わりはないんです。
引用です
私が誰か生命を殺したら、その生命は恨みを抱いたままどこかに生まれ変わります。いつか二人が再会したところで、その生命は私を殺すのです。私は「なぜ、こいつに殺されなければいけないのか」とまるでわかりません。だから、今度は私が恨みを抱きます。たとえば、突然外から人が来て包丁で私を刺したら、みんな刺した犯人をとんでもない悪人だと思ってしまうでしょう。私もそう思います。しかし、輪廻をわかっているのでしょうか?わかっていないのです。かつて私に殺された恨みによって、今度は私が殺されたら、私は相手に恨みを抱いて死んでしまうのです。次にその人を見つけたら、今度は私が殺すことになるでしょう。すぐには見つかりませんよ。人を殺した人は地獄に堕ちますから。地獄で気が狂うほど長い時間苦しんで、どこかに生まれた加害者と、遠い、遠い将来にまた出会うのです。出会ったところで殺してしまいます。
こころは何かしら知っていて殺しにかかるのです。
すごく怖いです。
ダンマパダの第五偈は、今世の話ではないです、ずーっと続くということです。
まことに、怨みによって怨みが静まることは、決してありません。
怨まないことで静まるのです。この真理は永遠です。
殺すまではいかなくても、人をだましたり、盗んだり、バカにしたり、傷つけたり、やってしまったことの業は、なにかしら巡ってくる、ということです。
国や宗教の戦争、テロもやむことないですね、無私なる輪廻の怖い一面です。
悪循環を断ち切る方法は「恨まないことで静まるのです」
この新刊では、今世で悪循環を断ち切るもっと具体的な方法が述べられています、ぜひ読んでみてください。
生きとし生けるものが幸せでありますように。