ジャータカのよもやま話

テーラワーダの在家仏教徒 身の回りのことを地味に書いてます。

仏教的な催しとダンマパダ163偈。

下記の本から引用

なんど見ても、かっこいいです。

 

 

この本になります。

 

慈悲の瞑想〔フルバージョン〕――人生を開花させる慈しみ

慈悲の瞑想〔フルバージョン〕――人生を開花させる慈しみ

 

 

 

中略

どうして仏教では輪廻転生を悪い、脱出すべきものだというのでしょうか?それはこころがこんな代物だからです。こころをそのままにして放っておくと、けっしてよい方向には行かないのです。お釈迦様は「自分を不幸に陥れる悪いことならやりやすい」とおしゃってます。ダンマパダ163偈にはこうあります。

 

悪いこと、自分にとってためにならぬことは為し易い

ためになること、善いことは実に、きわめて為し難い

 

どんな人間でもこぞってやりたがるのは、決まって悪いことなのです。

例えば、有名人がコンサートを開くとなれば、どんな人口の少ない街でも、ふだんは誰もいない山の上でも、たくさんの人が集まってくるでしょう。警察が来て交通規制しなくてはならないぐらい、混雑・混乱が起こります。しかし仏教的な催しを行う場合はどうでしょう?有名人のコンサートほど予約が殺到しないのはもちろんのこと、前もっての予約ですら、いとも簡単にキャンセルされます。有名人のコンサートなら何を犠牲にしても駆けつけますが、仏教の勉強会になると「犬がちょっと病気になってしまって、お医者さんに連れて行かなければ」という程度のことでキャンセルしてしまいます。これは悪口を言っているわけではなくて、法則を言っているのです。こころとは、それほどまでに「ためになること、善いことは実に、きわめて為し難い」という法則で動いているのです。法則だと理解すれば、こころが落ち着きます。

 

仏教的な催しは、世俗的な楽しみにことごとく負けるんですよね。

 

 

私自身、以前は勉強会や冥想会を開くほうではなく、参加するほうでした。

 

なかなか参加しなく、しょうもない用事で行かなかったりして、開いてくれる方のご苦労を思うと、ほんとバカでした。

 

本当のバカだから、しょうもない用事のほうが仏教的な催しよりも大事だと判断したのでしょう。

 

 

こんどは開くほうになりました。

当たり前ですが、参加に関してはいっさい強制はしません、個別に声をかけることもしません、主な連絡手段はメールのみになります、参加者の住所も知りません。

皆さまの自主性に任せています。

 

 

  

仏教的なことはやりたがらない、これが人間の基本的な法則です。

開いてみて、身をもってわかった次第です。

 

ですから、来ていただける法友って「まれ」「ありえない」んですよね。

ありえないことが起きている、大切にしなくっちゃ、ということで・・。

 

まだ、体も元気ですし、続けますので、ご心配なく。

生きとし生けるものが幸せでありますように。