個人の意見です、ご意見のある方はご指摘下さい。
四聖諦はとても大事な仏教の教えです、最初は仏教の筋道を示した起承転結のようなものかと思ってました。
起承転結とは全然違うみたいです。
よく学校の国語の時間で起承転結を学びましたが、四聖諦を学ぶと、起承転結ってこれでいいのかな?と思うようになりました。
文章の構成、論理の構成に問題があるみたいです。
漢詩ではいいのでしょうが、文章とか学術論文とかに向いていないようです。
さて四聖諦ですが、4つの真理をお釈迦様は意図をもって並べてあります。
苦集滅道ですね。
苦
生きることは苦
集
苦の原因ですね。これを具体的に説きます。
滅
苦が滅した、つまり悟った状態、、涅槃です。
道
滅にいたるにはどうすればいいか、その方法。八正道の実践。
やはり起承転結とは順番が違います。
まずは、生きることは苦、苦について説きます、そして、その苦の原因を説きます、そして次はその苦の無い状態を説きます。
そして、最後には、その苦を滅して、苦の無い状態に至るにはどうすればいいか説きます。
勉強会で面白いたとえを法友から聞きました。
通販番組の掃除機の例えというのでしょうか?
掃除されていない部屋はほこりだらけで不快だ。
不快の原因は、部屋にあるほこりにある。
ほこりの無い部屋は快適でよろしい。
掃除機を使うことでほこりを取ることができ、快適な部屋にすることができる。
結論は掃除機を使ってひたすらほこりを取ること。
さあ、この掃除機を買いましょう。
貪瞋痴にまみれた例えですみません。
最初に問題点を出し、その問題点の原因を説き、次に問題点が無くなったら、こういう理想的な状態になるよ、と説き、最後に何をすればその問題点がなくなるか、を説いていきます。
最後は、結論はひたすら「実践」になるのですね。
ですから、四聖諦は4つの真理ではありますが、意図をもった順番で並べて、最後は話を「実践」に持っていきます。
考えてみれば、当たり前のような、かといって絶妙な並べ方のような気がします。
例えば
売り上げが無くて困る
売り上げが無い原因は〇〇だからだ。
売り上げがある状態はこういうものだ
売り上げがある状態にするには、〇〇をすることだ。
またまた貪瞋痴にまみれた例えですみません。
でも、結局は「実践」なんですよね。
仏教は「実践」の教え、だとしみじみ感じた次第です。
交差する飛行機雲