ジャータカのよもやま話

テーラワーダの在家仏教徒 身の回りのことを地味に書いてます。

善友について

ダンマサークル等で勉強しあう仲間を「法友」とか「善友」と、個人的に言ったりします。

 

法友も善友も区別していません、両方とも同じ意味で使ってます。

 

先生の法話にもありますが、善友はとても大切なものです。

j-theravada.net

 

ちょっと引用します。

善友は仏道のすべてだ、とおっしゃってます。

友人関係について、どのくらいお釈迦さまが大切に考えておられたか、というエピソードがあります。

ある日、お釈迦様の側近であるアーナンダ尊者が、「仏道というのは、たいへん頭の良い、自分を指導してくれる、仲の良い友人がいるならば、その友人の力で道の半分を達成できるだろう」と考えました。そして、良いことを考えついたからお釈迦さまにお話ししようと思って、そのことをお話ししたのです。

するとお釈迦さまは「その通りではありません。仏道は、善友に巡り会えたならば完全に成功しますよ。半分ではありません」とおっしゃったのです。

 

 

善友は大事なのは、話としてはわかりますが、それが仏道のすべてだ、ということに、心底納得していたか??というと、私は怪しい仏教徒でした。

 

善友の大切さは、やはりお釈迦さまのお経にありました。

 

佐藤哲朗さんの著書で見つけました。

これだなあ、と思いました。

 

日本「再仏教化」宣言!

日本「再仏教化」宣言!

 

 

ここで、佐藤さんの本に増支部経典が掲載されています。

自分の勉強も兼ねて引用します。

増支部10集61無明経より

 

比丘たちよ、無明の始点は了知されないのですーーーー「これより以前に無明はなかった、またこの後に無明が現れた」というように。

 

比丘たちよ、しかし私は、無明がこのように了知されるのだと説きますーーーー「これによって無明あり」と。

 

比丘たちよ、私は、無明もまた食(支えるもの、栄養、縁)があり、無食ではないと説きます。何が無明の食でしょうか? 五蓋(欲貪、瞋恚、昏眠、掉悔、疑)であると答えるべきです。

 

比丘たちよ、私は、五蓋もまた食があり、無食ではないと説きます。何が五蓋の食でしょうか? 三悪行(身の悪行為、語の悪行為、意の悪行為)であると答えるべきです。

 

比丘たちよ、私は三悪行にもまた食があり、無食ではないと説きます、何が三つの悪行の食でしょうか? 根(眼、耳、鼻、舌、身、意の六根)の非防護であると答えるべきです。

 

比丘たちよ、私は、根の非防護もまた食があり、無食ではないと説きます。何が根の非防護の食でしょうか? 不念不正知(気づきと理性に欠如)であると答えるべきです。

 

比丘たちよ、私は、不念不正知にもまた食があり、無食ではないと説きます。何が不念不正知の食でしょうか? 非如理作意(因果関係に沿って考察しないこと)であると答えるべきです。

 

比丘たちよ、私は、非如理作意もまた食があり、無食ではないと説きます。何が非如理作意の食でしょうか? 不信(理解、納得がないこと)であると答えるべきです。

 

比丘たちよ、私は、不信もまた食があり、無食ではないと説きます。何が信なきことの食でしょうか? 邪法(間違った教え、非仏説)を聞くことであると答えるべきです。

 

比丘たちよ、私は、邪法を聞くこともまた食があり、無食ではないと説きます。何が邪法を聞くことの食でしょうか? 不善の人(外道)に親しむことであると答えるべきです。

 

比丘たちよ、このように不善の人に親しむことを完成するなら邪法を聞くことを完成し、邪法を聞くことを完成するなら不信を完成し、不信を完成するなら非如理作意を完成し、非如理作意を完成するなら不念不正知を完成し、不念不正知を完成するなら根の非防護を完成し、根の非防護を完成するなら三悪行を完成し、三悪行を完成すれば五蓋を完成し、五蓋を完成するなら無明を完成するのです。

 

このように、無明もまた食があって完成するのです。

 

比丘たちよ、たとえば密雲の神が山上に大雨を降らすとき、水は低きに流れて展転して山岳渓谷に満ちます。山岳渓谷に満ちて小さな池に満ちます、小さな池に満ちて大きな池に満ちます、大きな池に満ちて小さな河に満ちます。小さな河に満ちて大河に満ちます、大河に満ちて大海に満ちます。

 

このように、大海もまた食があって満ちるのです。

 

比丘たちよ、このように不善の人に親しむことを完成するなら邪法を聞くことを完成し、間違った教えを聞くことを完成するなら不信を完成し、不信を完成するなら非如理作意を完成し、非如理作意を完成するなら不念不正知を完成し、不念不正知を完成するなら根の非防護を完成し、根の非防護を完成するなら三悪行を完成し、三悪行を完成するなら五蓋を完成し、五蓋を完成するなら無明を完成するのです。

 

このように、無明もまた食がって完成するのです。

 

比丘たちよ、私は、明智と解脱もまた食があり、無食ではないと説きます。何が明智と解脱の食でしょうか? 七覚支(念、択法、精進、喜、軽安、定、捨)であると説きます。

 

比丘たちよ、私は、七覚支もまた食があり、無食ではないと説きます。何が七覚支の食なのでしょうか? 四念処(身、受、心、法の四つの念処)であると答えるべきです。

 

比丘たちよ、私は、四念処もまた食があり、無食ではないと説きます。何が四念処の食なのでしょうか? 三善行(身の善行為、語の善行為、意の善行為)であると答えるべきです。

 

比丘たちよ、私は、三善行もまた食があり、無食ではないと説きます。何が三善行の食でしょうか? 根(眼、耳、鼻、舌、身、意の六根)の防護であると答えるべきです。

 

比丘たちよ、私は、根の防護にも食があり、無食ではないと説きます。何が根の防護の食でしょうか? 念と正知(気づきと理性)であると答えるべきです。

 

比丘たちよ、私は、念と正知にも食があり、無食ではないと説きます。何が念と正知の食でしょうか? 如理作意(因果関係に沿って考察すること)であると答えるべきです。

 

比丘たちよ、私は、如理作意もまた食があり、無食ではないと説きます。何が如理作意の食でしょうか?  信(理解、納得)であると答えるべきです。

 

比丘たちよ、私は、信もまた食があり、無食ではないと説きます。何が信の食でしょうか? 正法(正しい教え、仏説)を聞くことであると答えるべきです。

 

比丘たちよ、私は、正法もまた食があり、無食ではないと説きます。何が正法を聞くことの食でしょうか? 善き人(ブッダ)に親しむことであると答えるべきです。

 

比丘たちよ、このように善き人と親しむことを完成するなら正法を聞くことを完成し、正法を聞くことを完成するなら信を完成し、信を完成するなら如理作意を完成し、如理作意を完成するなら念と正知を完成し、念と正知を完成するなら根の防護を完成し、根の防護を完成するなら三善行を完成し、三善行を完成するなら四念処を完成し、四念処を完成するなら七覚支を完成し、七覚支を完成させるなら明智と解脱を完成するのです。

 

このように明智と解脱もまた、食があって完成するのです。

 

比丘たちよ、たとえば密雲の神が山上に大雨を降らすとき、水は低きに流れて展転して山岳渓谷に満ちます。山岳渓谷に満ちて小さな池に満ちます、小さな池に満ちて大きな池に満ちます、大きな池に満ちて小さな河に満ちます。小さな河に満ちて大河に満ちます、大河に満ちて大海に満ちます。

 

このように、大海もまた食があって満ちるのです。

 

比丘たちよ、このように善き人に親しむことを完成するなら正法を聞くことを完成し、正法を聞くことを完成するなら信を完成し、信を完成するなら如理作意を完成し、如理作意を完成するなら念と正知を完成し、念と正知を完成するなら根の防御を完成し、根の防御を完成するなら三善行を完成し、三善行を完成するなら四念処を完成し、四念処を完成するなら七覚支を完成し、七覚支を完成するなら明智と解脱を完成するのです。

このように、明智と解脱もまた、食があって完成するのです。

 

引用おわり

 

 

昔のお経は紙に残すのではなく、口伝でした。

同じような言葉使いが何度も出てきて、たぶんセンテンスの長さも一緒です。

こうすると覚えやすいんでしょうね。

 

昔のお坊様は必死にこれを唱えて修行に励んだわけです。

 

 

これを読むと善友の意味がわかります。

善友は仏道の全てです。

 

 

お釈迦様です。

 

仏教を教えてくれるお坊様や先生です。

 

一緒に勉強する友になります。

 

みなさまはどう捉えますでしょうか?

 

こうも理解しました。

仏教徒の友は、仏法僧です。

 

 

たまには、がっちりお経に接するのもいいもんです。

 

生きとし生けるものが幸せでありますように。