引用
「生きることとは何か」を発見することが、ブッダの瞑想なのです。
テーラーワーダ仏教の瞑想で、何か特別なものはないし、時や場所を選ばなくてもできるし、お坊様から瞑想指導を受けることもできるし、ネットでも、本でも勉強することができ、実践もできます。
でも、私も含めほとんどの方が該当すると思いますが、瞑想ってイヤなんですよね。
たぶん、人間にとって一番イヤなことをしていると思います。
いろいろ考えていたいし、考えをめぐらし妄想するのは楽しいし。
お釈迦様は、「それをやめたみたらどうですか?、自分をよりどころにして、慈悲の瞑想や、ヴィッパサナーをやってみたらどうですか?」とおしゃっているかのようです。
思考や妄想を停止させるって、けっこう厳しいことではないでしょうか?
時間や場所をとって瞑想してても、自我や思考が割り込んで、いつのまにか、自己流の瞑想をしてたり、とか。
「瞑想ハイ」になってしまって、いつのまにか、自覚のないまま瞑想に依存してたり、とか。
人間の自我、思考、妄想はけっこう狡猾でかなり手ごわいです、無意識のうちに入り込みます、自分が正しいという意識を勝手に補強します、これには連敗しまくると思います。
これとの闘いというか、観察をし続けることになりますね。
私見で恐縮ですが、私がやっているのは「日常の瞑想」です、放逸が多いので観察を失念することもありますが、時間や場所の制約がないので、やっています。
以下にあります。
引用しますね。
一日じゅう、なさるいかなる行為でも、気付きながら、観察しながらなさったほうがよいのです。
放逸な私の場合はこれがいいみたい。
まだ「生きることとは何か」はわかりませんが。
今週の章は瞑想関連になりそうです。