ジャータカのよもやま話

テーラワーダの在家仏教徒 身の回りのことを地味に書いてます。

心を清らかにする方法 『ブッダの教え一日一話』

昨日、私は、確認の対象を「身体」と「感情」に分けていましたが、なんか自分でもおかしいな、と思い復習しました。

 

確認は「念」「サティ」にあたります。

 

「念」は浄心所のひとつになります。

説明が下手なので下記リンクを

j-theravada.net

 

サティの項目をガツンと引用します。

2.sati

気づき、今の自分の状態や自分が置かれている状況に目覚めていること

私たちは皆、眼耳鼻舌身意という六つの認識作用から得られる情報に、振り回されて生きています。それは実際ひどい状態なのですが、私たちはそのことにあまりにも慣れてしまって、その事実にさえ気がついていません。例えばある音が聞こえたとすると、私たちは聞いた瞬間に「好きなタイプの古いジャズだ」「お母さんが怒っている」などと判断し、執着したり嫌ったりして、欲や怒りの煩悩で心を汚します。これは、音だけに限りません。見るもの、食べるもの、匂い、感じること、考えること、妄想すること、等々、ありとあらゆることによって、私たちは煩悩を作り続けています。サティ(気づくこと)はその束縛を解き、心を自由にします。例えば電車の中で足を踏まれたら、「痛い」と思った瞬間に怒りが生じて、心は汚れていきます。もしも、サティをもって「痛み」とその現象を観ると、怒りは生じません。それどころか、すばらしい智慧が生じてきます。そのように、サティは不善に走る心を善に入れ替えるすばらしい力を持っているのです。

人を親切に助けてあげるような善行為の場合も、サティを入れたらよりすばらしい行為になります。普通そういう善行為をすれば、どこかに自我が残ります。お礼を言われることを期待したりして、よけいな煩悩が心に残るのです。サティを入れて人を助けてあげれば「私が」という自我なしに人を助けるので、何も心に残りません。それは純粋に清らかで真にすばらしい行為となります。

ほんの瞬間でもサティを入れたならば、そこに善があるのです。ですからサティはがんばってできるだけたくさん入れれば入れるほどいいのです。1日や2日ではなく、毎日毎日一生続けてくださいと仏教では言っています。痛くなったら「痛み」、怒ったら「怒り」、何か聞こえたら「音」と気づく。特別なことをするのではなく、普通の生活をしながらサティを入れればいいのです。そうすればサティを入れる瞬間瞬間、善行為をしていることになります。それを積み重ねていくと、いろいろな対象から自分がどんどん自由になっていって特別な智慧が生じてきます。サティこそは智慧を生じさせ、解脱に至る道に導いてくれる大切なはたらきなのです。

 

 

 

「身体」「感情」は正確に言うと「眼耳鼻舌身意」です、これを「観る」「確認」するということになります。

 

かなり詳しく書くと上記の引用になるのですが、本ではさらっと書いて終わりです。

 

 

時間を作って「歩く」ぐらいはできるでしょう?

できなければ「家事」でもいいし。

私の場合、いつも長い時間拘束されてる仕事の中でも工夫すればできそうです。

 

 

根がケチなので、仏教のお金が一切かからず、こういった効果の大きいところが好きです、話題がそれてすみません。