引用します
「痛い」と言ってしまうと、そこに自我があります。すると苦しみが訪れるのです。
「痛い」ではなくて、「痛み」と観るだけでいいのです。
ここでも、先生は具体的にサラリと言います。
「痛い」という単語は、
「(私が)痛い」というニュアンスを感じます、「私が(自分、我)」を呼び込むのですね。
「痛み」だと、「私が」入る余地がないようです。
注意深く「私」を排除です。
無智によって感情が生起→感情に栄養を与えるのは自我→感情を確認することで自我が消える→その感情は壊れます。
私見ですが、いままできつかった痛みは、恥ずかしながら「痛風」でした。
感情に覆われて、「なんでこんなに痛いんだよ」と自我と感情の最強コンビでした。
医師は病気の説明をしようとしましたが、私は「先生、説明はあとで聞きますので、この痛みをなんとかしてください」状態でした。
理性もなにもかもぶっ飛んでますね。
先生はサラリとおしゃってます、自分の身にふりかかったら、まずは挑戦です、サラリと挑戦できるでしょうか。