ジャータカのよもやま話

テーラワーダの在家仏教徒 身の回りのことを地味に書いてます。

感情に栄養を与えるのは、自我  『ブッダの教え一日一話』

引用します

「痛い」と言ってしまうと、そこに自我があります。すると苦しみが訪れるのです。

「痛い」ではなくて、「痛み」と観るだけでいいのです。

 

ここでも、先生は具体的にサラリと言います。

 

「痛い」という単語は、

「(私が)痛い」というニュアンスを感じます、「私が(自分、我)」を呼び込むのですね。

 

「痛み」だと、「私が」入る余地がないようです。

 

注意深く「私」を排除です。

 

 

無智によって感情が生起→感情に栄養を与えるのは自我→感情を確認することで自我が消える→その感情は壊れます。

 

 

私見ですが、いままできつかった痛みは、恥ずかしながら「痛風」でした。

感情に覆われて、「なんでこんなに痛いんだよ」と自我と感情の最強コンビでした。

 

医師は病気の説明をしようとしましたが、私は「先生、説明はあとで聞きますので、この痛みをなんとかしてください」状態でした。

理性もなにもかもぶっ飛んでますね。

 

先生はサラリとおしゃってます、自分の身にふりかかったら、まずは挑戦です、サラリと挑戦できるでしょうか。