下記で先生は自我を「砂のお城」に例えています。
ちょっと引用しますね
砂のお城
子供たちが砂のお城を作っているとしましょう。砂と水がうまく混ざってないと、お城は 作れません。やっと、砂のお城ができあがる。それから、どうなるでしょうか? 周りの砂 と、砂のお城は違います。お城を丁寧に扱わなくてはいけない。誰かに蹴られて壊されないように、周りに柵でも作らなくてはいけない。砂のお城を見ると、楽しくもなるのです。でも徐々に水が蒸発して、砂のお城は壊れていきます。「お城がなくなった」と言うかもしれませんが、何もなくなっていないのです。砂のお城を作ったからといって、何か新たなものを作ったわけでもないのです。そこに「砂のお城」という分別( ふんべつ)が現れて消えただけです。
砂のお城を勝手に作って喜んで、壊れないようにして、壊れたら悲しんで、で、お城はただの錯覚であると気づかない。
現れて消えただけだと、気づかない。
私の日常生活は「砂のお城」の連続です。
砂のお城の気づくことで、
本より引用です
修行が進めば、出しゃばりもなくなって謙虚になって、みんなの面倒をみながら、楽しくやていけるようになります。
これができないようだったら、「自分はまだまだ遠い」と思うことでしょう。
さて、話は変わりますが、上記にリンクに武器の話が出てました。
自我の錯覚に覆われていると、銃や刀や、自分の身を守ること以上の武器を持つようになるのでしょうね、銃や刃物は人を殺傷する可能性があります。
必要なものは2種類しかない、と先生は説きます。
自己防衛
誰だって、自己防衛に必死です。言葉を換えると、自分を守るために武器をとる気持ちを抱いているのです。なぜでしょうか?
自分という虚妄分別があるからです。自分を守る武器は二種類です。
① 家、服、靴、帽子、傘などなどは、自然環境から自分を守ってくれる武器です。
② 蚊取り線香、殺虫剤、防犯システムなどなどは、他の生命から自分を守るための武器です。外国では、拳銃、刀などの武器も持っているのです。自分という自覚が本当は錯覚であるならば、武器を持つ意味がなくなるのではないでしょうか?
覚者には、虚妄分別がないのです。ですから、attadaṇḍesu nibbutaṃ 武器をとる気持ちが消えているのです。
自分だけ勝手に自我の錯覚をしている分にはいいですが、錯覚が行き過ぎると人を殺傷します、銃や刃物にはその可能性があります。
でも、世の中は、自分を守る以上の武器に溢れてますね。
「我」が消えていくことは、自分にもいいですし、周りとも楽しくやっていける道です、それに気づけば、少しはうまくいってるのでないでしょうか?
おおー 明日28日は「食事の瞑想」だ。
一人でお留守番というか、大掃除をしますので、昼食は食事の瞑想をやりましょう
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