ジャータカのよもやま話

テーラワーダの在家仏教徒 身の回りのことを地味に書いてます。

影が体の後をついてくる 『ブッダの教え一日一話』

引用

執着の少ない人は、職場や家庭にあっても、どこにいても生きる重さを感じることはないのです。

 

 

本棚に下記の本がありました

 

執着しないこと

執着しないこと

 

 

 

目次を紹介します。

 

第一章

「妄想」を捨てる

 

第二章

「自分」へのこだわりから抜け出そう

 

第三章

「他人」へのこだわりを捨てる

 

第四章

「モノ」へのこだわりを捨てる

 

第五章

「過去」も「未来」も捨てる

 

第六章

「老・病・死への不安」を捨てる

 

おわりに

「笑い」でエネルギーを満タンにしよう。

 

 

本をまた再読しようと思います。

 

 

私見で恐縮ですが

 

齢を取るにつれ、楽しみって、続かないし、割に合わないものかもしれない、と思うようになりました。

下記リンクより引用

j-theravada.net

 

割に合わない生きる楽しみ

なぜ人は、存在のなかに真の安らぎがあると勘違いしているのでしょうか? それは、生きるなかで、たまたま楽しみを感じるからです。その楽しみも無常なので、満足することはできません。たとえば、冬に外を歩いてきた人の身体は寒くて震えているのです。暖かい家に入った途端、気持ちよくなります。しかし身体が充分暖まったところで、「はあ、暖かくてよかった」という感情が消えてしまうのです。家のなかで、別な楽しみを探すはめになります。病気で苦しんでいる人が治療して病気が治った時は安らぎを感じますが、健康でいる時、その安らぎは感じません。代わりに、他の楽しみを探すのです。お腹が空いている時、ご飯は美味しいですが、満腹の時は美味しくないのです。

理論は、「苦がなければ楽もない」ということです。人間が思う安らぎは、苦と対照的なものです。人間の考えが正しいと思うならば、究極の安らぎを得るためには究極の苦に陥らなければいけなくなるのです。一円もなくて二日三日も食べることもできなかった人が一万円を貰ったら、天にも昇るほどの幸福を感じるでしょう。しかし億万長者だったら、一万円を貰ったところでなんの刺激も起きないのです。世間でいう楽しみ、幸福、安らぎというのは、このようなものです。それらは、苦の上に成り立っているのです。

 

 

楽しみって、苦の上に成り立っていることを理解いていない、錯覚ばかりしていたのでしょうね。

 

齢を取って、やっとわかるようになりました。

 

 

理解の遅い仏教徒にもいい本です。