テキストでは、基本の基本なお布施について述べてます。
引用
生命は他から支えられないと、成り立ちません。生きるとは、あらゆるものに支えられていることです。それは、「布施されている」ということなのです。
だから多量の布施を受けて生きている私たち、「他の役に立つ」という布施を行わけらばならないのです。
公園のゴミを拾うとか、公衆マナーを守るとか、そういった小さなことでも。
私見ですが、
私たちはたくさんの布施で生きてますね。
「親の恩」とか、これ、もう返せないくらいたくさんもらってます。
で、お肉とか、お魚とか、食べるものにしても、たくさんの生物や人手を経て、手に入れて生きてますね。これも返しきれないです。
まあ、生きているって、返しきれないことばかりなので、せめてそれを自覚して生きてみれば、なにかできることあるでしょ?です。
先生の語るお布施はこれで納得です。
話は変わりますが、先生が語ることを遠慮した「お布施の話」があります。
なにかの法話で聞いたのですが、お坊様が「お布施、ダーナ」の話をすることは、お行儀が悪いというか、お坊様はお布施されるほうなので、本当はお布施の話は遠慮するのでしょう。
日本の人はお布施に関して「騙されている」と言ってます、長らく大乗仏教に接してきたので、日本独特な意味での「お布施」になっていたのでしょう。
先生が遠慮しながら話すお布施の話です。
お布施は目的ではなくて手段ですね。
お布施の目的は
なぜそういうことを最も大切に考えるかというと、汚れた思考を育てると悟りの道となんの縁もなくなってしまうからです。いくらお布施をしても、心が清らかな方へ、智慧の方へ進まないならばその行為にはなんの意味もありません。仏教ではいつでも智慧の方へ、自我をなくす方へ進んでいるかどうかということを、一番大切にするのです。
上記文章が掲載されているリンクです。
心を清らかにするための手段ですね、お布施は。