ジャータカのよもやま話

テーラワーダの在家仏教徒 身の回りのことを地味に書いてます。

死ぬ瞬間まで仕事はある  『ブッダの教え一日一話』

テキスト引用

仕事のない人はいません。

仕事とは、自分以外の何者かの役に立っているということなのです。

それは自分が必ずやらなくてはいけないということで、選択の余地はないのです。

 

 

法話を紹介します。

j-theravada.net

 

引用します

人は誰でも社会の役に立ちますか? 社会の役に立たない人もいるのでしょうか? この問いにはYES、NOでは答えられません。人間の社会に生れたからには、その社会に貢献できる何かの能力を生れつき持っている、ということは業の法則です。業の法則はお釈迦さまの語られた真理なので、間違いはありません。ですから答えは、「人間であるならば人間の社会に貢献できる能力はみな持っている」ということになります。しかし事実はそうではありません。社会の役に立たない人々は、多すぎです。社会に支えられないほどです。この問題は、これだけに留まりません。役に立たない性格をさらに完成させて、社会の迷惑になる生き方をする人々も多すぎなのです。ただでさえ苦労している人間の社会が、迷惑種族のせいで壊れかけているのです。人類の将来は、明るくなるとは言いがたいのです。将来のことはおいておきましょう。いま現在も、世界はたくさんの解決できない問題、民族紛争、宗教戦争、宗派間抗争、資源争奪戦、国境紛争、環境汚染、などなどによって打ちひしがれているのです。

 

業の法則からすると、人間として生まれたからには「役に立つ」ことができるということです。

 

せっかく、人間として生まれたからには「役に立つ」ほうがいいですね。

 

でも、世の中を見渡してみると、貪瞋痴で、学識、能力、権力、財力、で動いている方がほとんどです、いろいろな団体や国家もそう。

貪瞋痴で動いている方が大多数です。

 

「役に立つ」で生きている方のほうが少数派です。

 

法話からさらに引用します。

大富豪家であっても、権力者であっても、絶世の美男美女であっても、こころが汚れているならば、信頼できる善い人にならないのです。何のとりえもないと言っても、こころが汚れていない人は、善い人なのです。それこそ、その人の「とりえ」なのです。

 

少数派の仲間入りして、この「とりえ」を見つけて大事にしていきたいです。

それなりの「業」を受けることになるでしょう。