全文引用
証明できないものに対しては、「信じる」か「信じないか」かしかなくなります。例えば一神教の説く「神」のように。
そして、いったん信じることにすると、あとはただ、信仰して生きるしかないのです。信仰におちいると、それについて議論することも、疑問を抱くこともままならなくなります。森羅万象を客観的に、科学的に調べることもできなくなります。
信仰は、「智慧の開発」の足かせです。
信仰は人の心に鍵をかけてしまうのです。
ブッダは悟りをひらかれた直後に、「信仰を捨てよ」と説かれました。
短い文章です、ああー、完璧です。
私見です。
信仰というと宗教の話になります。
信仰するのは人それぞれですが、宗教には「教義」があります。
信仰する前に「教義の吟味」をしなければならないのですが、いろいろな宗教のHPを見ると、ロクすっぽ教義さえ書いてないところもあります。
多くの方な教義さえ吟味しないで、自分の耳や口や目にロックをかけて信仰に「陥る」のですね。
せめて教義くらい調べたほうがいいですね。
「神様を目の前に見せてよ」とか、「自分の家族と仲良くできない宗祖様がなぜ他人に偉そうなこと言えるの」とか、「みんなが仏っておかしいんじゃないの」とか、「飲酒の害が言われてるのになぜお坊様はお酒を飲むの?」とか、「大乗仏教は仏説だと証明してよ、できなけば仏説だと名乗れないんじゃないの?」とか。
科学的に見れば、必ず疑問点が生じるはずなのですが・・・・。
それをすっ飛ばして信仰に「陥る」のですね。
人間、生きてることが不安で不安で、何かしらに頼りたい、常に慢性依存の病気状態なんでしょうね。
信仰って、ここにつけ入ったり、自分からのめりこんだり、そういうことなのかもしれません。
どうせ依存するなら、三宝の三帰依に、ということで。
はるかに健全です。
下記に詳しい法話があります。
盲信仰にガツンとやるテキストです。