ジャータカのよもやま話

テーラワーダの在家仏教徒 身の回りのことを地味に書いてます。

みっともない事実を諭す 『ブッダの教え一日一話』

短いので全文引用

悪事を犯すことは、世の中の恩恵を受けていて、恩を仇で返すことです。それは、とてもみっともないことです。

悪いことをする人は、勇気も自信もない腰抜けなのです。だから「悪いことをするのは、みっともない」」と諭すことができるのです。

怒ることでも無視することでもほめることでもない。そのみっともない事実を諭すことがいいのです。

 

 

 

私見です。

 

 

仏教を学ぶ前は、人に対してよく怒ってましたが、学ぶことで減りました。

 

自分の子どもが小さな頃、「これはやっちゃダメだよ」と言ったことがありますが、これは「諭す」になるのでしょうか。

 

 

 

どちらかというと、いつも先生の法話に「諭して」もらっています。

 

 

話は変わりますけど、先生の質疑応答や法話で「魚を釣る」という話が出ます。

先生は不快感を隠そうとはしません。

人間の勝手な都合、自分が楽しみたい故に、他の生物の命を奪う、という行為が不快なんでしょうね。

 

 

で、下記は「人間が釣られる」という話です。

j-theravada.net

 

 

魚はエサに釣られますけど、私も含め、人間のエサは恣意的にコロコロ変わり、死ぬまでエサに釣られる人生を送る可能性があります。

 

魚以下です。

 

法話の引用

なぜ気づかないのか?

恐ろしいことに、私たちは死ぬまで好きな対象、つまり「餌」に釣られて生きています。スバニミッタは、率直に言うと「餌」という意味です。餌と言うと、皆さんは食べ物のことしか頭に浮かばないかもしれませんが、仏教では、見えるものや聞こえるものなど、眼耳鼻舌身意に入るすべてのものを食べ物として考えています。色声香味触法が生命の食べ物なのです。

そこで、なぜ私たちは死ぬまで餌に釣られるのでしょうか? なぜ刺激の網に引っ掛かっていることに気づかないのでしょうか? それは「釣られる餌」がしょっちゅう変わっているからです。若いときはオートバイが好きでも、死ぬまで好きかどうかは分かりません。子供のときはおもちゃに釣られていても、中高生になるとゲームや携帯電話に夢中になるかもしれません。他にも、音楽や映画、おしゃれ、旅行、グルメ、仕事など、釣られる餌は時間や年齢とともに次々変わるのです。そのため「自分が餌に引っ掛かっている」ということには気づかないのです。でも、過去のことなら分かるでしょう。「むかし若いときは馬鹿なことをやっていたなあ」と、四十歳や五十歳になったときに気づくのです。そこでその人に「今はどうですか?」と訊いてみると、「今は大丈夫、何も問題ありません」と応えるのですが、それは嘘。今も、他のものに釣られているのです。ただそれに気づいていないだけで、後になってから分かるのです。これが生命の愚かさであり弱みなのです。

 

 

生命の愚かさ、弱さ、自分からわざわざワナにはまる。

 

五十代ですけど、未だ諭される人生です。

 

 

 

諭してくれる本です。