ジャータカのよもやま話

テーラワーダの在家仏教徒 身の回りのことを地味に書いてます。

いいことをする目的とは 『ブッダの教え一日一話』

テキスト引用

「いいこと」をする目的は、心を清らかにすることです。その目的であれば、期待してもしなくても「いい結果」が出ます。

 

私見です

 

昨日は「こころに良いこと」目指したい、です、と書きました。

 

 

いいことをする目的は心を清らかにすること

 

そこには「成長」がありますね。

 

そこには「良い人格を目指す」も含まれますね。

 

 

で、素朴な疑問です。

テキストでいう「いいこと」は善行為だと思ってしまいます。

で、仏教で言うところの善悪とは?です。

 

下記の質疑応答にありました。

j-theravada.net

 

長いですけど、引用します。

悪徳行為というのは簡単にわかるのですが、善徳行為というのはいつどういう時にどのようなことをすれば善徳になるのか、考えるとよくわからなくなります。

それはすばらしいことを疑問に思ったと思います。善徳行為とは何か、それが我々にわからないのが当たり前なのです。偽善的に考えればいくらでも思いつくでしょうが、まじめに考えると、わからないはずなのです。なぜかというと、人間は本来、悪(貪瞋痴)しか知らないからです。いくら「善いことをしているんだ」と胸を張っている人でも、実際には、悪いことばかりするとうまくいかないから善行為らしきことをしているだけで、本物の善は知らないのです。悪という材料で善をつくっている状態です。だから人間のやることは世界中迷惑ばかりで、よく見ると生命の役には立ってないでしょう? 皆、本当は「自分さえ良ければそれで十分だ」と思っているのです。自分の役に立つならば親切にするが、役に立たない人なんかはどうでもいいと。その本音を出すとうまくいかないんだから、本音は言わないだけです。

そういう心で「善徳」を考えて何かをしても、汚れた思考や概念で考えた行為なのだから、すごい臭いゴミで芸術作品をつくるようなことになるのです。芸術作品だからそれなりの形はあるかもしれませんが、ゴミだから汚くて臭い。家には飾れません。では本当の善徳は何なのか。それを聞いても我々には理解さえできないと思います。今自分の頭にある概念で理解しようとしても、無理なのです。

それでお釈迦さまは、否定形を使って具体的に説かれるのです。「悪は貪・瞋・痴、善は不貪・不瞋・不痴だよ」と。それを見ると、「不」という否定形を入れただけです。それがすごい智慧なんです。ブッダ以外には語れない真理です。「施し」「慈しみ」と言うより、「不貪」「不瞋」と言った方が、いちばん具体的なんです。自分が生きている上で、欲が出てくる、怒りが出てくる。それと戦ってみなさい、ということなんです。怒りが出そうになると、怒りが現れないようにがんばる。欲を抑えようとがんばる。だから本物の善行為は派手ではない。ずいぶん質素です。自分の不善との戦いなんです。他は何もする必要ないんです。それだけでたいへんです。善いことをしようとがんばるのではなく、悪いことをしないようにがんばる。そうすると、私たちに、本物の善が経験できるのです。それが善徳になるのです。

人に嫌なことを言われた場合は自然に嫌な気持ちがこみ上げてくるでしょう?  それを抑えるのです。嫌なことがあった時、私たちに自然に出てくる感情(一次的な感情)は、すべて悪い感情だと思って間違いありません。その一次的な最初の感情を出さないようにするのです。それは顔つきや言葉など表面的なことではなく、内心の、心の深いところで、怒りの感情が出ないようにがんばるのです。もちろん簡単ではありません。苦しいけれども、それで自分の悪と戦ったことになるのです。それがすばらしい善徳になるのです。その行為は汚れてないのです。「私が善いことをやるぞ」と思ってやる行為は、たいがい汚れています。名誉欲や、慢心や、競争心などが隠れているのです。だから、自己観察をしないと、人には善いことはできないはずなんです。

感情は生きるエネルギーです。怒ると、「怒り」が生きるエネルギーになるんです。怒りが出ないようにしたら、「怒らないこと」が生きるエネルギーになるんです。それがどういうものか、自分でやってみないとわからないんです。でも、「怒らない」エネルギーで生きると、「怒る」エネルギーで生きるより、すごく元気で明るくなるということは言えます。すごく大人になれるのです。その精神的な強さが善徳なんです。その心の修行をする人しか、「善」は知らないんです。自分の悪を落とす道。仏教で目指すのは、その道です。それは、自分で経験して、理解するのです。善徳は自分で経験する。派手に、人にわかるようにやることではないんです。

仏教を実践する人にしても、「善徳とは何か」と聞かれると、なかなか正しく答えられないと思います。お経を唱えたり法事や先祖供養をすること、お布施したり、瞑想することでさえ、すべて形にすぎません。それらはやりやすいんです。心がいくら汚れていても、お経をあげてお布施をして格好つけることなどは、簡単にできます。それが善徳だと思うと真理にはならない。

善と悪は、己の心を中心にして理解するものです。汚れた心は悪で、清らかな心は善です。しかし、智慧が完成していない我々の心は汚れているので、悪しか理解できないと思った方が良いのです。魚が陸の世界を知り得ないことと同じです。それで我々は、心に絶えず生まれてくる悪の感情をなくす努力をする。その努力によって、何か新たなことを経験するでしょう。それが、善というものです。

 

 

私自身 「悪」という材料で、自分で善行為をやったつもりになってるケースがあるかもしれません、知らず知らずのうちに。

 

人間、好んで「悪」をしますので、まずは「悪いことをしない」が大事だな、と個人的に思います、これなら不器用ながらもできそうです。

 

 

 

好んで「悪」をする自分にガツンとやるテキストです。