短いので全文引用
私たちは、説教されるといい気がしません。
ところが他人には、「しっかりしなさい」「がんばりなさい」「ちゃんとやりなさい」と言うのが大好きです。
でもそれは、「私の言う通りにやってもらいたい。でも私のことはほうっておいてほしい」と言うのに等しいのです。
私見です
昨日の続き
「自分で行わず他人に言うのは、ただの説教です」
自分のことは棚にあげて好き勝手にモノを言う、それを「説教」と言う。です。
自分も含めて、なぜ私たちは説教(他人にあれやこれや言うこと)が大好きで、ついついその罠に陥ってしまうのでしょうか?
なぜ、陥ってしまうのでしょうか?
先生のおっしゃる通り、他人には慈しみで接しなければいけません。
でも、それを忘れて、自分も実践してない、役に立たないことを他人にあれやこれや言う。
ロクでもない自分のことは棚に上げて、他人に好きなことを言う。
そこには慈しみはありませんね。
元々成り立たない行為なんでしょうけど、懲りずにやろうとするのですね。
人に説教をしようとする自分がいたら、「貪瞋痴にやられまくってるぞ」とか「慈しみはどこ?」と、なんとか気づかないとです。
気づいて、今やるべきことに戻ってこなければ、です。
説教はかなり根深い問題です、さて、私は役立たずの自分にうまく気づくことができるでしょうか?