テキスト引用
心は、自分自身が栄養となって、次の心をつくるのです。清らかな心を栄養として、次につくられる心はまた清らかです。
心に汚れが入ると、次につくられる心も汚れてしまうのです。
私見です
この本がすごく参考になります。
キンドルで99円で読めます、ぜひ読んでほしいです。
ちょっと抜粋します。
心に栄養が必要
命を支えるのは、ご飯、ケーキ、果物、お茶などの口に入るものだけではありません。食べ物とは比較にならないほど、心に栄養が必要です。
世の中にも、「心の栄養」という考えがあります。それは経済的に豊かになって、時間が余るとおこなう娯楽のような程度のお話です。芸術や文学や精神的な話などです。
ここでいう心に必要な栄養とは、そんな、「時間が余ったら心にも栄養を」というような話ではないのです。仏教の考えは、食べ物より大量に、心が栄養を必要としている、ということです。
生きているということは、心があるという意味です。心がなければ、この身体は単なる物体なのです。呼吸したり、食べたり、歩いたり、座ったり、話したり、考えたり、見たり、聞いたり、味わったりするなどの「生きるはたらき」の一切は、まとめて言えば、「心のはたらき」なのです。心も、肉体と同じく、壊れるものです。しかし、心の壊れ方、身体と比較にならないほど速いのです。瞬間、瞬間、心は壊れ、新たな心が現れるのです。ですから心を維持管理するためにも、心にも栄養が必要なのです。
心は絶えず生滅を繰り返すのですね。
ここに貪瞋痴が入ると、貪瞋痴で生滅を繰り返すのでしょうか。
なんだか、すごく心や身体に悪そうです。
栄養でなく、毒が回っている状態です。
自分自身を顧みるに、自分の心は貪瞋痴の生滅状態ですね。
自分自身の心が貪瞋痴で汚れていると、せっかく触れた有益な情報とか出来事を、自分で汚して得ようとするのですね。
おバカさんです。
で、たまに、気づきや瞑想で、貪瞋痴に塗れた自分に気づく、ということでしょうか。
本では、毒に塗れた心を解毒する方法を教えています。
解毒する方法は「慈悲のこころ」です。
慈悲で接すれば、触れる物事は自分にとっての栄養になりそうです。
具体的に詳しく知りたい方は本をお読みください。