ジャータカのよもやま話

テーラワーダの在家仏教徒 身の回りのことを地味に書いてます。

「私」という実感の正体

テキスト引用

すべての人間の苦しみも悲しみも、あらゆる問題は、「私」」という実感がつくりだしています。その実感は、「私の家族」「私の会社」「私の国」と拡大されて、他との対立、あつれきをもたらします。

 

 

私見です。

 

興味深い自我のお話かありました。

thierrybuddhist.hatenablog.com

 

「私」という話と、概念の話に興味があります。

引用です

子どもたちが数学をやっていると、XとかYとか、何とか使うんですね。あれって、XとかYは何の意味もないんですよ、ほんとは。ただ、なんでも入れられる可能性がある、便利なシンボルなんですね。シンボルには、たとえばYとは何かと、言わないんだけど意味がないんです。

 

たとえば、2×3は6なんですけど、X×YはXYですね。全然計算していないんですね。

それって便利なんですけどね。あらゆるものごと、過去のこと・将来のことをXでまとめる。「これはXである」と。自我の場合は数学と違って、Xファクターは何でもありきなんです。

 

そこで、認識過程を冥想でしっかりと調べてみると、Xファクターは過程につけているラベル以外なんでもないんだと、わかってきます。

 

 

 

「私の国」って私の概念を入れて、なんとか維持してます。

で、中国とか、韓国とか、北朝鮮とか、アメリカとか、イギリスとか、便宜上、名前を付けて概念を維持しようとしてますね。

 

概念を維持しようとするのは自我です。

 

これを、名前ではなく、数学の「a」「b」「c」とかに入れ替えてみる。

a+b+c=人類 です。

 

人間のやってることって、「a」「b」「c」に、好みの概念を入れて、「我が国はこうだ」とか「あの国はいい」「あの国はイヤだ」とか、勝手なことばかりしてます、なんのことはない、人類で済む話なんですけど。

 

 

これでもいいですよ

a+b+c=家族

この数式を見ると、慈悲の瞑想フルバージョンの一節を連想します。

 

引用

私は、釈尊の言葉を念じます。

無始なる輪廻のなかで、私の母でなかった生命はいません。

無始なる輪廻のなかで、私の父でなかった生命はいません。

無始なる輪廻のなかで、私の兄弟でなかった生命はいません。

無始なる輪廻のなかで、私の子供でなかった生命はいません。

無始なる輪廻のなかで、私の友人でなかった生命はいません。

釈尊の戒めをとうとんで、一切の生命に慈しみの気持ちを抱きます。

すべての生命は私自身の父・母であると思います。

すべての生命は私自身の兄弟であると思います。

すべての生命は私自身の子供であると思います。

すべての生命は私自身の友人であると思います。

すべての生命は私自身の家族であると思います。

すべての生命は幸福でありますように。

 

a+b+c=家族、というと、一つ屋根の下に暮らしている自分の家族の名前を、a、b、c、に入れたくなりますけど、名前も自我からくる概念の話なので・・・。

 

誰でもいいです、誰でも当てはまります。

ということは、皆、わたしの家族なので、慈しみをもって接しなければならない、ということです。

 

 

数学は苦手ですけど、「私の」「私の」という、まずは「私の狭い狭い概念」を破るにはいいかもしれない。

 

私のせせこましい概念を教えてくれる本です。