短いので全文引用
知識は、なくては困ります。
しかし、ありすぎても困るのです。
知識は増えれば増えるほど、人生は重くなります。そして、その知識はいつか消えてしまいます。
欠かせないものは、知識ではなく、智慧なのです。
智慧とは、その瞬間に、正確に何をすべきか、ひらめくことです。
私見です
先生の法話を聞いて、未だに、智慧で物事を成した、という経験がありません。
ふだんの生活はどっぷりと「知識」によるものです。
知識と智慧の違い
上記からズバリ引用
苦を増やす知識
この喩えで、仏教の智慧の世界はどのようなものかと説明します。生きることは苦なのです。何をしても、苦が別な苦に変わるだけです。友達が居ないとそれが苦です。友達が居るとその関係で苦が起きます。人が知識を得るのも、苦を無くす目的です。しかし知識を得て振り返ってみたら、苦が増えただけではないかと発見します。智慧とは、なぜ苦しみが起こるのかと発見することです。それからその原因を取り除くことです。それで一切の苦が消えるのです。それが出来た人には、この世にある如何なる現象であっても、それを知っていることになるのです。
最終的な解決は智慧です
仏道実践を始めたら、智慧がジワジワと現れてきます。智慧が現れた分、人生は楽になります。いくら知識があっても、智慧には叶わないのです。わずかな智慧がある人でも、知識人などよりも瞬時に、正しい生き方を発見するのです。問題が起きたら、すぐ正解がみつかるのです。知識は概念をためる働きではなく、物事をありのままに観られる能力のことです。知識には完了はないが、智慧には完了があります。智慧のある人は、普通の人間と同じであると思ってはいけないのです。
私自身、智慧は未だに経験してませんが、知識で物事を行っている、という実感はあります。
例えば、ある問題が起きて、取り組んで解決する、でも時間が経つと、その解決案が新たな問題を引き起こす。とか。
行った当時はベストな解決方法だったけど、時間が経って、新たな問題が出てくる、とか。
あっちを立たせば、こっちが立たない、こっちを立たせば、あっちが立たない、でキリがない。
知識でやっていることって、しょせんこんなことなんでしょうね。
上記法話では「知識には完了はないが、智慧には完了があります」と先生はおしゃってます。
やってもやってもオチが無いのはマズイんでしょう、いまはそれを自覚している状態です。
智慧が無いことを自覚させてくれる本です。