短いので全文引用
知識はやがて消えますが、智慧は消えません。
智慧は主観を破った状態であらわれます。それは特別な「なにかを得た」ことではないのです。
「なった」世界です。
知識のように「得たもの」は重いし、智慧のように「なったもの」は重くないのです。
私見です。
これを読んですぐ連想したのは「悟り」の話ですね。
下記の本
私の持っている本はサンガさんの新書版です。
22ページより引用します。
「悟り」はみんな知っている
「悟り」はとても有名な言葉です。
「悟り」は仏教徒が目指す究極のゴールで、そのゴールに達した人が「悟った人・目覚めた人・ブッダ」になるのだということは、よく知られています。
「悟り」はどういうものかということも、みんななんとなくよくわかっています。悟ったら、怒ったり欲を出したりすることがなくなり、こころがいつも平静で、かといってボケてしまったわけではなくて、そのが逆にものすごく智慧が鋭くなり、しかも慈悲深くもなったような感じではないかと、なんとなく、みんなわかっているのです。
悟りは四段階です。
預流果
一来果
不還果
阿羅漢果
仏教徒なのに、いまだに上記4つとは無縁です。
でも本によると、なった方は自分がいまどこの段階かよくわかるようです、
で、たしか不可逆です(間違っていたらすみません)
知識は勉強したり、体験したりて「得る」ものですけど、智慧は「なるもの」
「なる」と聞いたら「悟りの階梯」です。
一番最初の段階でも「預流果になる」ですから・・。
上記の本の長老の序文です
瞑想として(俗世間の)精神安定しか求めない現代人と、冥想修行の完成者である聖人たちが達した境地の違いは何でしょうか。それは現代を生きる我々に関係ないのでしょうか。
本来「瞑想」は得るためのものではないです。
でも「得る」目的の方が多いですね。
さらに引用
瞑想の本来の目的は未知の境地でした。ストレスをなくために、精神的な悩みをなくすために、健康のために、仕事の能力を向上するために、病気を治すために、などなどの俗世間的な目的で瞑想に挑戦する人々のほうが多数です。ですから瞑想の世界も、現代社会と同じく、複雑でわかりにくい、こんがらがってほどけない、猫に遊ばれた毛玉糸のような状態になっているのです。瞑想から精神的な安らぎを求める人々に、冥想世界は新たな疑問をたくさん与えて、さらに困らせることにするのです。
仏教の教えを「得よう」に利用する方々は、たぶんこんがらがってしまいます。
そこには貪瞋痴が混ざってますので、解決しても新たな問題がエンドレスで起こるのでしょうね。
仏教徒は「なる」を目指すということで。