引用
智慧があるというのは、心の中に先入観や価値判断がなく、さまざまな概念で固まっていないことなのです。
一切の概念から心が解放された状態です。
私見です
これは「覚った」状態のことを言うのではないでしょうか。
下記の動画、先生が、ちょっと微笑みながらお答えになるのが印象的です。
悟りの世界とは、どんなものでしょうか? #スマナサーラ長老 #初期仏教QA #jtba
話はズレます。
いままで「覚り」と「悟り」を区別なく使ってきました、下記の本を読んで、初めてその違いを知りました。
上記の本、153ページに「悟り」と「覚り」の違いが詳細に書いてあります。
「悟り」はいろいろな経験(仏教以外でも)に使われる言葉とのことです、ですから「私は悟った」と言われたら、「何を悟ったのですか?」と聞かなければならない、とのことです、いろいろな経験に使われますので、悟ったことで何かがわかったのでしょう、それを聞くぐらいは、かまわないですよね、否定、肯定も無しで。
「覚り」は仏教の言葉です、仏教の修行の結果を意味する言葉です、本では、瞑想の最中に「悟り」は起こるかもしれませんが、「覚り」は起こらない可能性があるとのことです。
瞑想中に起きた日常とは違う個人的な体験を「悟り」と表現するのはいいでしょう、でも仏教の修行の結果としての「覚り」かどうかはわからない、ということです。
これからは注意して言葉を使います。
涅槃(覚り)の話です。
上記の本から引用します。(183ページ)
一切の言葉はここまでです。生命の理解能力、概念の範囲、言葉での表現はここまでで、これ以上涅槃(覚り)の説明はできません。「涅槃とはどういうところでしょうか」という質問をよく受けますが、これは成り立たない質問です。言語はそこまで及びません。言語が及ばないということは、思考もそれ以上及ばないということです。
再度引用
智慧があるというのは、心の中に先入観や価値判断がなく、さまざまな概念で固まっていないことなのです。
一切の概念から心が解放された状態です。
上記の「智慧がある」という言葉を「覚り」とか「涅槃」に入れ替えてみましょう。
しっくりきます。
まだまだ智慧の世界は遠いですけど、放逸に気を付けて、少しでも近づきたいです。