短いので全文引用
自分を判断しようとしても、ほんとうは判断の対象となる「自分」はいないのです。
そこにあるのは「行為」だけです。
自分と呼んでいるものは、歩く、喋る、寝る、考える、食べるなど、無数の行為の連続なのです。
どこにも、自分などいないのです。
私見です。
パッと読むと禅問答のような感じです。
「自我」の話ですね。
「自分がいる」という錯覚は、覚りの4番目までしつこく追っかけてきますので、完全に無くすためにはどうしたらいいんでしょう、という気持ちになります。
私自身、毎日が錯覚状態です。
ヒントになるのが下記のサイト
「自我をなくす準備」
thierrybuddhist.hatenablog.com
自我を完全に破るのは難しいとしても、仏教徒はその準備をしなくては・・・です。
ちょっと気になる部分を引用
そこで、ラベルでなんとか一貫性を保とうとするんですね。そのように、われわれは気持ち的に「わたし」という概念・観念を入れておくんです。それでなんとか、赤ちゃんの写真を見て「これはわたしでしたよ」と。「わたし」という観念がなければ、赤ちゃんの写真を見て「これはわたしです」とは言えません。どう見ても自分じゃないんですけどね。
シャバで生きるには、便利な「私」というラベルを貼っておくんでしょうけど、赤ちゃんの私はもう私ではないし、スマホの中の記念写真の私も私ではありませんね、ほんとうは。
あるのは、行為というか過程だけ、上記の法話メモでは「認識過程」という言葉を使っていました。
引用
たとえば、2×3は6なんですけど、X×YはXYですね。全然計算していないんですね。
それって便利なんですけどね。あらゆるものごと、過去のこと・将来のことをXでまとめる。「これはXである」と。自我の場合は数学と違って、Xファクターは何でもありきなんです。
そこで、認識過程を冥想でしっかりと調べてみると、Xファクターは過程につけているラベル以外なんでもないんだと、わかってきます。それで自我ということが破れます。それでも、「自分がいるんじゃない?」という実感みたいなものはまだ残っています。それで、さらに、さらに、冥想すると、自分がいるんでしょうという気持ちが、感覚に対する愛着、「見たい・聞きたい」んですね。「なるほど、見たい・聞きたいというところに、自分という実感が出てくるんだ」とわかる。それから次に、「見たい・聞きたい、というのは何やこれは?」
何でもありの認識過程(行為)を観察すること。が準備になりそうです。
毎日、「自我がある」に負けっぱなしなので、たまにはやり返したいです。
詳しくは、上記リンクをお読みください。