ジャータカのよもやま話

テーラワーダの在家仏教徒 身の回りのことを地味に書いてます。

そのまま行為として感じる 『ブッダの教え一日一話』

引用

歩く、喋る、寝る、考える、食べるなどの行為を、そのまま行為として感じてみてください。

何の判断もせずに・・・。

そうすると、いままで起きていた煩わしい人生の問題が、いとも簡単に解けていきます。生きるとは笑ってしまうくらいシンプルなことだと発見するでしょう。

そして心は究極的に清らかになるのです。

 

私見です。

 

「行為」についてですね、「行為」とはなんぞや、です。

 

ヒントになるリンクです。

j-theravada.net

 

ここの部分

自我は事実をごまかす

料理を作る勉強をする、仕事をする、などの行為は、「私の意志で行っている」と簡単に言えるものです。
ことばとしては、「私は料理を作る」などの表現も可能です。時々、「私は呼吸している」とも言えますが、寝ている間でも呼吸しているから、その文章は正確ではないのです。「私は心臓を鼓動している」という文章は成り立ちもしないのです。しかし、世界はすべての知識を「私」という主語で統一しているのです。
ですから、実際に、私・自我・命・霊魂などの何かが永遠不滅に存在すると信仰しているのです。自我の存在は、証拠にもとづいて立証されてもいないし、しようともしない、立証することもできない概念なので、迷信以外の何ものでもないのです。

「私は勉強している、私は考えている、私は神を信仰している、私は地球が丸いと思っている」などの言葉で「私」を主張する人々は、何か大事なことを忘れているのです。
まず、生きる、生きている、という行為があります。生きているから、私は勉強している等々と言えるのです。言葉上では、「私は生きている」と言えますが、人は意図的に生きているわけではないのです。意図があってもなくても、生きています。生きているとは、行為の連続なのです。
「私」という自我を主張する人々は、私がいる、という錯覚を引き起こした基礎行為を調べてないのです。生きているという基礎行為から起こる二次的な行為である、勉強する、考える等の行為だけ気にするから、私、という自我が、錯覚であることに気づかないのです。この二次的な行為で、真理を発見するのではなく、真理をごまかすのです。

 

自分なりのポイントは・・。

 

人間は意図があってもなくても生きている、生きているとは行為の連続。

 

で、歩く、喋る、寝る、考える、食べる、などは、「生きている」という基礎行為から起きる二次的な行為。

 

この二次的な行為ばかりに気をとられて自我の錯覚に気づいてない、ということです。

 

で、テキストの法話では、二次的な行為を観察してみたらどうですか?観察することで「生きている」ということが観えてくるかも・・。という話なのかもしれません。

 

 

「バカだから生まれてきた」ですから・・。

ですから、意図があってもなくても生きている

でも、シャバでは、「生きている」の二次的行為ばかりに気を取られている。

 

 

毎日、二次的行為の奴隷になるんじゃなくて、たまにはガツンとその正体を観察してみてはどうですか? と教えてくれる本です。