ジャータカのよもやま話

テーラワーダの在家仏教徒 身の回りのことを地味に書いてます。

錯覚を破って自然体で生きる 『ブッダの教え一日一話』

引用

自我というのは錯覚の産物です。

それを発見した人の心は、想像を絶するほど軽くなるのです。ちょっと言葉では表現できないくらいです。

「無我」だとわかれば、ものごとに、好きだ、嫌だ、苦しいのだ、大変だ、などなどの判断をすることはなくなります。

 

私見です。

 

簡単にサラっと書いてありますけど。

 

すなわち、自我に気づいて、自我を破って、無我の境地にいるということでしょうか。

 

かなりレベルが高いです。

 

その前に「無我」とは?

 

下記法話メモを見つけました。

thierrybuddhist.hatenablog.com

 

 

あっ、もっと詳しい法話がありました。

 

「無常」イコール「苦」イコール「無我」です。

j-theravada.net

 

 

まずは、無我を理解するには、わかりやすい無常からやっていったらどうですか?とおっしゃってます。

 

でも、ちょっと気になったのが。


上記リンクに錯覚を破るヒントになる話がありますね。

ちょっと引用

「一万円ももらいました」「もらったのはたった一万円です」……この二つの表現が、実物として一万円をもらったところで現れる幸福と不幸をものがたっています。一人を幸福にして、もう一人をどん底の不満に陥れた犯人は、一万円札ではありません。こころなのです。

 

自分のこころが勝手に不幸のどん底を作っている、ということです。

 

とても詳しく「無常」について書いてあります、ぜひお読みください。

 

 

 

調べている最中に興味深い法話を見つけました。

「覚りに至るため、仏教である理由」

まったく、うまく言えてません、すみません。

どうぞお読みください。

j-theravada.net

 

 

いろいろ調べるきっかけができる本です。