全文引用
主観のない人だけが、客観的・普遍的にものごとをみるのです。
自分のない人にとって、自分も他人もいません。
そこにあるのは、自然法則の中に起こる「行為」の連続だけなのです。
私見です。
関連する法話を見つけました。
私は、日常生活では、私を引き付けるエサが付いている「色声香味触法」にひっかかってばかりの生活をしています。
エサ付きの「色声香味触法」を「眼耳鼻舌身意」で認識するんでしょうけど。
「認識した」とか「感じた」いう認識だけならいいんでしょうけど、エサにつられて、「私は」という主語を入れて、(主語の時点で、もう主観が入ってますね)いつのまにか、「私は知った」になっているんでしょうね。
「私が感じたものを私は知る」
「私は知る」
ここで、ズバリ「知っているのは主観」
法話の題名どおりになりました。
ここでガツンとくるのは「如理作意」のお話。
引用
パーリ語に、ヨーニソーマナシカーラ(yonisomanasikāra, 如理作意)という言葉があります。これは大変重要な言葉ですので覚えておくと役に立つでしょう。ヨーニソー(yoniso)は「因果法則に則って、論理的に」という意味、マナシカーラ(manasikāra)は「観察する」という意味です。そこでヨーニソー マナシカーラは「因果法則に則って観察する」という意味になります。ヨーニソーマナシカーラが無いとき(論理的に物事を観察しないとき)、私たちは色・声・香・味・触・法のいずれかに引っ掛かって苦しみます。一方、ヨーニソーマナシカーラがあるときには、心は冷静沈着ですから、安易に引っ掛かることはありません。何にも囚われず、自由に生きていられるのです。したがって私たちが愚かな原因、混乱して苦しんでいる原因はただ一つ、ヨーニソーマナシカーラが無いということです。それだけなのです。お釈迦さまは「ヨーニソーマナシカーラがあれば、すべての問題は解決する」と教えられました。物事を客観的に論理的に観察することができれば、すべてうまくいくのです。
「因果法則に則って論理的に観察する」
大事な単語は
理性的
論理的
客観的
冷静沈着
因果法則
観察
完全に「私の」という主語、主観から離れる
か否かはわかりませんが、挑戦ですね。
話は変わりますけど、「如理作意」をネットで調べていたら、大乗の「唯識」と「阿頼耶識」に飛ばされてしまいました、読んでも理解できませんでした。
私は読んで理解できる「如理作意」がいいです。
今日は如理作意に行ってしまいました。
きっかけは下記の本です。