引用
ブッダの説法は、「私の言うことを信じなさい」「信じないと大変なことになるのだ」という脅しではありません。
「これはよくないから、やめなさい」とか「ああしなさい、こうしなさい」と命令することはありません。
説法に疑問を投げかける人がいたとしても、それをとがめるようなこともされませんでした。
いつでも、「客観的な事実」に基づいて説法したのです。
けっこう重要なので全文引用してしまいました。
巻頭法話のどれかに、先生の気になる法話があったのですが、どれだか思い出せません。
かなり根本的なことをおしゃってました。
巻頭法話
たっぷり読めます
で、どういう話かというと、「覚り」という真理に達する手段として仏教があるわけですが、覚りに達することができるなら特に仏教にはこだわらない、でも、覚りの真理をきちんと説明しているのは仏教しかないのです。
すごく大雑把に書きました。たぶん私見が混ざってます。
仏教を学ばなくても真理に達するなら、仏教も手段のひとつなので、仏教にこだわる必要はないでしょう。
でも、仏教では真理を説いたものが仏法になってるので・・・・。
真理を追究すると、結局は同じなのかもしれません。
私は、個人的に真理に達する力、つまり知識や瞑想とか実践力が無いので、仏教が正しいな、と確信し、帰依してます。
すごくヤバイ言い方ですけど、素質のある方は仏教を学べば、すごく効率よく真理に達するかもしれません。
子どもの頃から学べば、もっといいです。
すみません、脱線しました。
お釈迦様は、「仏教を学べ」とはおしゃってません、客観的な事実(ある意味で真理)に達するなら、仏教以外のことも、どうぞお試し下さい、とおしゃっているのだと思います。
「信仰しろ!」とか、「信心が足らない」とか、「信じないから不幸が続く」とか、「幸せになりたければ信じなさい」とか、いう話があったら、人間の持っている「調べる力、学ぶ力」を奪う話なので蹴ったほうがいいです。
仏教は、人間から何かを奪うことはありません。
帰依しても奪わないし、離れていいても奪うことはありません。
大事なものを奪う話は用心ということで。
奪う話には用心です