短いので全文引用
人間は不完全なのです。
不完全だから、少しずつ進歩していかなければいけません。
その進歩というものは、いつやめるのでしょうか。
終着点があるとしたなら、「これ以上は進歩というものが成り立たない」と発見した時点です。
バリバリの私見です。
『ブッダの教え一日一話』は、テーラワーダ仏教徒以外の一般の方が読むことも想定されているので、「終着点」の話は、あまり突っ込んで書いていません。
だから「終着点というものがあるかもしれない」とおしゃってます。
それと「進歩」という言葉も使っています。
仏教徒の終着点は「覚り」です。
でも、一般の方には「覚り」はわかりにくい話かもしれません。
で、一般の方にもわかるように「覚りとはなんぞや」という話です。
上記より引用
生命というものは、いつもなにかをさがしています。いつもどこかへ向かって走っているのです。なにもしないでいると苦しいのです。不安でたまらないので、とにかくなにかをしようと動いています。そして、それはわたしたちの人生も同じです。苦しみから逃れるために、なんの役にも立たないことを、いろいろとやっているにすぎないのです。
この不安の消えた状態が「覚り」なのですけど・・・。
読んでみると、生きるということは進歩もへったくりも無いということですね。
走り回って役に立たないことばかりやっている、ということです。
で、また、この状態が好きなんでしょうね。
覚れるわけないわ・・・、です。
で、ここで話を終わらすわけにはいかないので。
先生の法話に、「終着点にたどり着くことができないのはなぜ?」という意味の法話があります。
ズバリ、下記ですね。
お釈迦様は懇切丁寧に、具体的に、覚りに達する話をしているのに、私も含めいろいろな皆さまは、仏教の実践は嫌がるし、覚りに達する方は稀でしょう。
なぜ?
その「なぜ?」に答える法話です。
法話では
仏教に問題はなさそうだし。
原因は「怠け」だとおしゃってます。
怠けのポイント引用です。
今回のポイント
- 努力しても成功に達する人は少ない。
- 修行しても悟りに達する人はまれである。
- 成功に達しない理由は怠けである。
- がむしゃらに闇雲に頑張ることも怠けです。
- 怠けはとても危険な病です。
がむしゃらに闇雲に頑張る、という部分が気になります。
これって理性が飛んでて、なんだか感情的に行動しているニュアンスがあります。
貪瞋痴が混ざっているような感じがします。
貪瞋痴が混ざってる状態って「怠け」なんでしょうね。
で、「怠けはとても危険な病です」とあります。
法話にもありますが、「怠け」は本能からくるので、油断してると、アッというまに心が覆われてしまうし、がむしゃらにやったところで、狡猾な怠けが修行の皮をかぶって邪魔をして、結果が出ず「ごくろうさん」で終わることもあるかもしれません。
お釈迦様は、7年間もしくは一週間で覚ることができるとおしゃってます。
でも、出来ずに本能が勝利するのですね。
終着点にたどり着くには。
理性と落ち着きで、役にも立たないことから離れる、ということでしょうか・・。
自然と結果が出ればいいのですが・・・。