本日は下記の本より
引用
30 こわれなければ創造はない
「すべてのものは無常である」(諸行無常)と
明らかな智慧をもって観るときに、
人は苦しみから遠ざかり離れる。
これこそが人が清らかになる道である。(277)
私見です
昨日は「退屈」の話をしましたけど、やっぱし退屈はやばそうです。
本文より引用
仕事をすること、生活をすること、生きていることは、こわれていく過程ということができます。結婚すれば、独身生活はこわさなくてはいけません。会社に就職したら、それまでの生活をこわさなくてはなりません。
すべてがこわれるものです。わたしたちの生活もこわれるものです。なにひとつとして例外はありません。「自分だけがこわれたくない」ということはありまえません。それは、どうにもならないことです。
毎日のルーチンワークもよく見ると、変化して壊れるか、壊れ始めているかもしれません、だから、本当は「退屈」はあり得ないのですけど、「退屈」は物事をよく見ていない証拠になってしまいそうです。
「退屈」ならまだいいですけど、もっとタチの悪い話もあるのですね。
本より引用
人間にとって最大の恐怖は、自分の生命が壊れること・・・・すなわち「死」です。
中略
宗教では、死んだら「来世」や「天国」や「浄土」があるとさまざまに教えています。けれども架空の世界を想定して、そこに信を置くのは「逃げ」です。
物事をよく観ないことは「退屈、怠け」ですけど、物事をよく観ないで架空の世界を作ってそこに「信」を置くのは「逃げ」です。
個人的には、退屈よりもタチが悪く、なんだか悪化したような感じがします。
退屈は治りそうですけど、「逃げ」は、初期は治るかもしれませんけど、完治に時間がかかりそうな気がします。
最後の部分を引用します。
心をよく観察してみれば、つねに変化していることがわかります。ある心から別の心へと、瞬間瞬間、変化しています。寄せては返す波のように、「死んで生まれて、死んで生まれて」ということの連続なのです。そのことが真に実感できれば恐怖は消えていいきます。
物事の変化を観察を怠けて退屈どころではないですね。
物事どころか、自分の心も変化してる、ということです。
「退屈」や「逃げ」だと、楽なんでしょうけど仏教の目的からは離れていきそうです、お釈迦さまは「やらなくてもいいことはやらないほうがいいよ」とガツンです。
上記法話よりお経を引用します。
経典の言葉
Dhammapada Capter XXI PAKINNAKA VAGGA
第21章 種々なるものの章
- Yañhi kiccaṃ apaviddhaṃ Akiccaṃ pana kayirati;
Unnalānaṃ pamattānaṃ, Teasaṃ vaddhanti āsavā.- Yesañca susamāraddhā, Niccaṃ kāyagatā sati;
Akiccaṃ te na sevanti, Kicce sātaccakārino;
Satānaṃ sampajānānaṃ, Atthaṃ gacchanti āsavā.
- なすべきことを
等閑 に なすべからざる事をなし
放逸にして念 なくば煩悩 彼にましてゆく
常に
念 をば身にむけて なしてはならぬに遠ざかり
なすべきをなす正智者は もろもろの漏 消え行かん- 訳:江原通子
- (Dhammapada 292,293)
「やらなくていいことをいつもやってる、どういうことだ!」と、言われている気分にさせる本です。