引用
先生は、教える何かをもっている、しかし、自分はもっていない。
それが、先生と生徒という関係です。
尊敬できるかできないかはさておき、まずは学ぶのです。ちゃんと教えてくれるなら、立派な先生だと思いましょう。
私見です
昨日は「仏教を知っていれば・・・」なんて話をしましたが、仏教を知っている方はとても少ないです、絶滅危惧種かもしれません。
ほとんどの方は仏教とは無縁です。
本日の話は、仏教云々にこだわらず、全ての方に向けてのお話です。
学校での話ですね。
かなり昔に、義務教育の生徒をしていました。
勉強はいまひとつだったなあー。
未熟な若者でしたから、先生も大変だったと思います。
うーむ
学校は勉強するところなのですから、勉強を熱心に教えてくれる先生は立派です、リスペクトです。
いま、ここで、自分のやるべき職務をまっとうしてますから・・。
で、生徒は、勉強や先生を軽んじないで、学ぶ、ということですね。
さて、副読本
上記の副読本より引用
204 学べない理由は軽視
どうして学べないのかということの答えは、「軽視する」というたったひとつの単語です。学校の授業でも「先生の講義はたいしたことないし、テキストにも書いてあるし」という気分でいると、脳にインパクトがありません。頭には鍵がかかった状態です。鍵をかけずに開けておけば、いくらでも頭が良くなります。どうやって鍵を開けるのか?それは「何だ、これは?」「何?何?」という興味関心、あるいは「ああ、そうなんですか!」という程度の気持ちです。難しいことではありません。
うむ、「先生」や「いまやるべき勉強」を軽んじると、頭にロックがかかるのですね。
成長が止まった感じでヤバイです。
「先生云々」「勉強云々」よりも、これはオープンになっていない自分の問題ですね。
どうせやるなら「いま、ここ」でやるべきことをやる。
どうせやるなら「なかよく」です、リスペクトできたら、なおいいです。
仏教徒なら「慈しみ」です。
いきなり脱線です
仏教徒なのに、周りに仏教を教えてくれる先生がいない・・・。
ご心配なく、お釈迦様がいます。
本でも、ネットでも、その教えに自由にアクセスできます。
お釈迦様の教えにアクセスできる本です