テキスト引用
文明が進歩し、生活環境は便利に快適になりました。さまざまなトラブルに対処するために、法律を定めたり、システムを作ったりしますが、本質は何も変わっていません。
それは結局、「人」が変わっていないからでしょう。
環境がどう変わろうが、それに適応できる「心」を作らないと、結局は何も変わらないのです。
私見です。
文明が進歩して、生活環境が便利になり、快適になる。法律や新しいシステムもできる。
その目的は「幸福」「幸せ」になるためですよね。
でも、世の中を見渡しても「幸福」の実感があまり無いというか、できない、というか。
私も無い、というか・・。
幸福を目指しているつもりなのに、そうなっていない。
なぜなのでしょう?
副読本を読みます
下記の本です、これ、いい本です。
引用
238 探しても見つからない幸せ
前略
しかし、仕事をしても食べるものが手に入っても、我々は一向に幸せになりません、それで今度は、美しいアクセサリーや洋服、いろいろな電化製品、お金や社会的地位を手に入れたくなります。くだらないところで幸せを探しているのです。
中略
仏教的にいえば、探し続けているのは「幸せがないから」です。もし幸せがあるのだったら、誰も探す必要はありません、つまり「生きる」というシステムの中に幸せはないのです、それなのに人間は幸せを探しています。探すことを「生きる」というのです。
生きるというシステムの中に幸せは無い、探し続けることが、いまの人間の「生きる」って状態。
「幸せ」というゴールはあるのでしょか?
「だったら、どうればいいの?」という話になります。
続けて副読本を引用
239 人間は不幸になることを選んでいる
人間はこの地球に現れたときから、「幸せになりたい」とずーっと頑張ってきました。自分は幸せになりたいし、できれば周りの人々を幸せにしてあげたいと願っているのです。お医者さんに「あなたはなぜ医者になったのですか?」と聞けば、「人々を幸せにしてあげたいからです」と答えるでしょう。政治家に同じことを聞けば、「国民を幸せにしてあげたいからです」と答えるでしょう。その結果はどうでしょうか?残念ながら誰一人として幸せになっていないのです。その理由は、心が悪に向かって回転するようにできているからなのです。お釈迦様はこのことについて、「生命は幸福になりたいと思って、不幸になることを選んでやっているのだ」とおしゃっています。不幸になることを選んでやるのであれば、当然不幸になるでしょう。「なぜこれを選んだのですか?」と聞けば、「それを選んだほうが幸せになると思ったからです」という答えが返ってきます。しかし、結果は逆です。この法則から脱出する道を教えられるのはブッダだけです。ですから、生命の中にブッダが現れることは幸福である、と言われています。
不幸を選ぶのは法則なのですね。
先生はあっさりおしゃってますけど、これってけっこうヤバく、恐く感じます。
で、この法則から脱出する道です。
脱出する方法が、この法話のオチになります。
この法話には、書いてないですけど、仏教徒でしたら、その「オチ」は、もうお分かりですね、あえて書きません。
法話にはオチがあります。