引用
「わかりたい、学びたい」と真剣に求めている人は、ほんの少しでも真理に触れたならば、すぐにそれを理解することができます。舌がちょっとでもスープに触れれば味がわかるように。
「自分は何も知らない」として、学び続ける人は、必ず花が咲きます。
「私は知っている」という高慢な人は無智で終わります。スプーンがスープの味を味わえないように。「私は何も知らない」という謙虚な人が賢者になる理由を、ブッダはそう説いたのです。
私見です
やっと思い出しました。
ダンマパダにあったことを
下記の本より
ダンマパダの64と65です。
引用
愚者はたとえ生涯を
賢い者に仕えても
法を了知することはない
匙がスープ味を知らぬように
(64)
知者はたとえ一瞬でも
賢い者に仕えるならば
ただちの法を了知する
舌がスープ味を知るように
(65)
64の因縁話で、ウダーイ長老の話が出てます。
立派な博学な長老に見えるのですが、比丘たちの五蘊の質問に答えることができなかったとのこと、お釈迦様と同じお寺に住んでいながら、なんだかすごいです。
65の因縁話は、遊女を追い回していた30人の青年が、説法を聞いてただちに比丘になり、修行して、お釈迦様の「無始」の説法を聞いて阿羅漢になった、という話です。うむ、すごい若者たちです。
で、自分はどれに当てはまるか?です。
「自分は知らない」、という自覚がありますが、鈍いので、ダンマパダの65には到底及ばないです。
頭が鈍いなりに、64をなんとか脱したい、というレベルでしょうか。
花は咲くのでしょうか?
うむ、何度読んでもダンマパダは深いです。